羽休め

 

月初+増税の関係でなかなかの忙しさ。結構楽しい。残業も時間も決まっているし、限定された極限状態は鍛えられていい。限定された極限状態といえば、論文試験も頭が沸騰して楽しい。2時間以内に事例問題読み解いて、自分の知識の引き出しから適切な道具を取り出して、どれくらいの分量でまとめるか決めて、時間制限ぎりぎりまで書き続けるという。まだまだ足りてないスキル。

 

あと、どういう経緯か分からないけど、お風呂に入って本を読んでシャワー浴びて出てきたときに何時何分かだいたい分かるようになった。2分以内の誤差で。今日はちょっと早めに読んだから、9時35分から40分の間、いや40分だなとの目測。38分だった。

 

これは時間に追われているというより、むしろ逆で。相対的時間なんてどうでも良いから、主観的時間と比較をする回数が増えて、自分がどれだけの主観的時間を過ごしたら相対時間はどれくらい流れているかということが観測できるようになっただけ。本日帰宅して時間を見たら8時7分で、お風呂を溜めながら、着替えて洗い物して、豚肉と小松菜ともやしの炒め物、きゅうりの浅漬けの準備をして、お風呂入れるようになったのが830分だった。極限状態。やればできる。

 

まぁ良いや。

 

増税の影響だろうけど、スーパーはやたらと広告の品を強調している。なんとなく紛れるまで購買意欲をそがないようにしようってことで、まぁ正しいし有難いけど、キノコばっかり安いのがなんとも。きのこ好きだけどさ、値段トータルであまり変わってないじゃないかと。オリーブオイル安かったのはラッキーだった。1リットルのやつ。

 

節約の話なのかなんなのか、スーパーでは1円単位で気にするのに、他ではそこまで気にしないのはなんでだろうと前に聞いたのを思い出した。この感覚は分からないでもない。今一瞬分析してみたけど、食材を買うことって権利じゃなくて義務的な側面があるのかなと。義務であればなるべく軽減させたい訳で。同じ義務でも統一感がないというのも、頻度というところにあるのかも。

 

とはいえ、人の統一感がないのは当たり前の話だから誰がどんなに統一感がなくてもその人の中にあるだけ気にならない。問題はその統一感のなさが外への要求になったとき。個人レベルなら、応えるから応えないかは相手次第だろうけど、社会レベルならよく分からないことになる。

 

これって要は、他人を決めるなら自分が決められても受容するのかとか、自分が社会の被害者と評するなら、自分が社会的に誰かの加害者になっていることも受容するのかという話。広く語るなら、そこには自分も含まれているのだから他人事にしてはいけない。

 

抽象的になってきた。

 

ここでの結論は、要求は問題ないけど、それが返ってくるかどうかとは別の話ということ。

僕は要求されると返さなきゃって義務が生じる埃をまだ被り気味だから、あ、これが埃かとは認識できてきた。昨日の他人軸という皮をかぶった自己中心的な人格とも繋がっているけども。

 

だからだろうな、僕は自分に要求してこない人に惹かれる習性がある。

教えて欲しいならちゃんと頭を垂れるとか。

 

この世で何かを否定するほど簡単なことはないと思う。既存のルールとか他人の穴を見つけて避難することは、自分が上がった気分にはなれるけど、当人の位置は全く向上していないという。

 

でもそうしないと生きていけない精神性も分からなくもなくて。

どういう違いなのかって考えると、当人が自分を諦めているからではなかろうかと。そんで、諦めるのも能力値というより、原初の感情とか認識に依っているような。

 

人とはなんと複雑な存在か。

脳の容量圧倒的なのに蟻の分布とあんまり変わらないようだし。

 

 

ところで、今日、帰宅時間が遅れたのは、新しい小説を探していたから。読んだことない人のを買おうと思って、時間がおしてきたところで選んだ、「おやすみ、東京」。

 

おやすみにも東京にも惹かれなかったけど、読んでみたら当たり臭い。カラスの生態を気にしまくる成年とか、びわ泥棒とか出てきて楽しい。カラスの生態を気にしている奴がここにも居たかと。カラスの知能水準は、ピンポイントだったら人間より高そうと思っている。びわも実家で現物あったし、なんとなく思い入れが。

 

びわの味って、どう言語化できるかというと難しい。甘いけど野生だから別に糖度はそこまで高くないし。でも、イチゴみたいに酸味もなかったな。もっと難しいのはアケビ。存在の認知度自体も低いし、粘度もなかなかで、一見食べる気がしないフォルムだし。

 

 

最後。

 

僕があんまり人に嫌われない理由を分析してみた。別に参考にできることではないという注釈付きで。

 

前提は、他人のことはどうでも良いと思っている。

このどうでも良いは、自分がよければ他人がどうなっても良いじゃなくて、自分が欲しているものをもっている人と自分を繋げないとか、自分が誰かより優れているとしても、それで自己評価に換算しないとか。

 

 

あとは、他人と関係するときに、肯定的な側面ばかり見つけるとか。

 

ただ、僕は聖人じゃないから、他人を全く否定しないことはなくて、自分を否定してくる人にはそれなりの防衛をしていたのだろうなというのはある。否定はしなくても、あなたはこういう人だと僕の枠を決める人に対しては鏡のようにふるまう。

 

 

結局止まり木で良かったのかという感じ。

まぁ昔の止まり木とは精神の具合が随分違うから、向上はしたのだろうけど。

 

おしまい。