関係を決めて

 

 

 

仕事が終わってスーパーに寄った帰り、前を歩いている人が転んだ。足が不自由そうに見えるけど、不自由さに馴れていないようだったから事故なのかもしれない。速足で近づいて「大丈夫ですか」とは聞いたけど、無言だったから何もしなかった。別に不自由そうだったことが根拠ではなく、目の前で転んだからだったのだけど、もしかしたら見下しとして捉われたのかもしれない。

 

別にここに後悔はない。他人が何も求めてないのに何かを一方的にするのはとても失礼なこと。これも最近塗り替えた認識だけど。僕はそこまでしない人だ。善行っぽいことを積むことに意味を感じないし、僕が見えたところで掬えても何にも変わらない。

 

落ちた財布とかなら、当人が見てないからしれっと拾って届けられるのだけど。

 

しんどいこととか伝えたいこととか求めることはちゃんと表現しないといけない。勝手に施しがあることなんて稀有なこと。

 

表現としての言葉で言えば、僕の言葉はそれほど求めていない。求める言葉って、暗喩みたいに使われることが多いのかな、相手がこうしてくれるに違いないという意味でぼやかす。

 

語用の呪縛というか日本人の慎ましさというか、非言語の雰囲気で世界をコントロールできるという風潮がありそう。自己主張的表現はすれば良いと思うけど、それって本当に自分という個人が求めているものなのかと考えると、なかなか疑問ではある。

 

僕はそもそも自分が求めるように世界は動かないで良いっていう前提がある変態だから、個人に対する表現は、欲求ではなくて提案でしかない。まぐわってみませんかってまぁまぁやべぇ表現だ。今のところこういう表現は一人だけにしか言っていない。はず。恥ずかしいので封印しようとも思う。

 

変な話だけど、僕は別に、自分の欲求が全部叶うことが自由とはしていないし、他人に期待はしてないから、物足りると思っていた人が物足りなかったみたいな感想は抱かない。

 

ちょっと脇道にそれて。

 

新刊枠はもう次のものがやってきたから、鶏小説集はもう良いかなっていう気分になっている。僕は小説において結末のカタルシスなんてなんて求めてないし、結末のその先を想像する為に読んでいる訳でもない。どれだけその物語に没入できるかという過程しか大事にしていない。

 

それにしても、罪と罰は登場人物の自分語りが長すぎる。モブがこれだけ語るってなんぞ。でも、この小説がこの時代まで生き残っているのは、なにがしか普遍的なところがあるのだろうなと思うけど、僕は別に普遍的な価値があるからという理由でこの本を読んでいる訳ではない。

 

匿名的ちょっと近い誰かさんが前しか見ていないと言っていた。文脈で、今以降の時系列だとは読んでいるのだけど、なぜ物理的な位置の言葉が出てきたのだろうって読もうとすると、不思議になる。位置観念だったら上でもポジティブな要素にはなりうるけど、なんであえて前という言葉を選んだのか。

 

「前」ではなく「今」の方が適切ではなかろうか。とか。

 

 

波さんが言っていた、誰でも嬉しいっていう言葉もやたらと印象に残っていてやたらと気になる。本当に誰でも良いのかなって。

 

いや、たぶん本当にそうだとは思うけど、その基準からしておかしいことを僕に対してしてなかろうか。ということはなんでですかって機会があれば聞いてみたい。これも全然願望ではないのだけど。

 

まず、ファンの匿名的なところを現実的に開示してくれっていうのが波さんの観念にはないはずなのに、というのが1つ。誰でも良いから認められたいのであれば、具体的な個人なんて必要ないはず。

 

あと、この前の劇評について誘引してくれたこともおかしい。評論が誰からでも嬉しいとすればだけど。僕の表現が良いって言われたことはないから、当人の本当なんて何も知らないけど。

 

単なる営業だという説も否めないからなんとも言えない。

 

存在を受け入れるって言った責任はいつ取ってくれるのだろう。

 

 

てな感じで観測している。

 

 

なんも知らない。

 

365回までにはあと30回以上はあったから、当面僕は居なくならないです。

 

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カウントダウン

 

 

ポン酢とケチャップってかけるものとしては混ぜ合わせる気がしないけど、炒め物の調味料にしたら酢豚ぽくなるかと思い付き鶏むね肉と茄子でやってみた。皮の部分を弱火で炒めて出てくる油を炒め油にして肉を加えて、茄子を足したときにごま油も加えてなんやかんや。思ったより酸味はないけど美味しい。

 

 

本日は梅雨らしく重たそうな雨。弁当も外で食べられないし、帰りも濡れて不便だった。昼なのに誰も居ない公園って、記号として矛盾していて綺麗だ。憩いの場としての目的から乖離している。単に喧噪に美を感じないというだけかもしれないけど、一致していない不具合ってとても惹かれる。あと、植物が文字通り瑞々しい。ガクアジサイもセイヨウアジサイも捨てがたいけど、帰り路の最短ルートを外さざるをえなかった花。ちらっと見えて、お、と思ってみたらたぶん、蛍が中に入る白い花だった。名前忘れたけど、こんな路地に咲く花だったのだって。雨は視界を滲ませるからほんとのところは分からない。時期としては合っているような。

 

 

さておき。

 

もう木曜日が終わる。一日一日がつるつると終わっていってしまう。この感覚なら残り時間があと何十年あろうと一瞬で終わってしまうだろうなという危惧を抱く。無為には過ごしていているけど、ただ過ごしている訳でもないのに。これってたぶん、日常において来てほしくない時間帯がないからなのだろうな。朝は若干鈍いし昼休憩後は眠いし呼吸がちょっとしづらくはなるけれど、嫌だなぁとまでは思わない。

 

他の人の時間感覚なんて知らないから自分の感覚だけど、時間が区切られるのってそれが来てほしくないことが支点になっていたような気がする。嫌なことがどんどん迫っている時に時間をありありと感じるし、楽しみなことも然り。待ち遠しさに時間を感じる。

 

そうして、年を経た方が時間の流れが速くなるというも、前は区切りがないからって言っていたような気がするけど本質はそこではなくて、単に今までの長さと比べているだけと思った。距離で測るようなものではないはずだけど。

 

日記が更新されないから空腹だ。

 

ところで、先生が、自分の脳のピークは25歳だったって言っていて、僕がそういう風に思うことってないだろうなって思う。確かに先生はごりごり大学院で研究していた時期で当人的には本当にそうだったのだろう。でも、何をもってそうしているのかは分からない。外界に対する吸収力なのかもしれないし、単純なワーキングメモリかもれない。たぶん集中力なのだろうなって当たりを付けているけど、集中力なんて研究者以外には要らないものだと思われる。いや、もと研究者の人が集中力なんて要らないというエッセー書いていたけど。

 

集中力信仰はなかなか根付いているよな。集中って環境の話でしかなくて、集中しようとしてするものではない。環境を整えるっていう文脈で言えば、先生の脳環境は25歳の時が一番良かったのかもしれない。集中しなければって思うこと自体が集中にとっては雑念。

 

環境としての雑念は必ずしも悪いことではないけど。自分以外の存在を自分と同位もしくは自分以上にみなせることだから。

 

さて、やっと本題。

 

共同幻想論は今読む本だったのだろうなと思った。まだ最初の方だから中身についてはあまり分からないのだけど、共同幻想とは、自分に基づいた観念以外の観念全般だったかな。俯瞰的な価値観。国とはとか倫理とはとかそういうやつ。幻想だから物理的ではないってこともなくて、この本は国家を語るものだから国家の構成員であることはとても物理的だろう。物理的無意識。

 

どうやらこの人は、もともと文学ないし言語学の研究者らしく、前著で言語としての美という本があるらしい。こっちの方が気になる。で、言語学の界隈の研究者の批判は全然検討違いだったとか。

 

曰く、言語学的な言語観はもともと言語が存在しているという前提があるけれど、自分は表現としての言語を対象としていたとか。表現されなければ言語はない。

 

なんだかとても僕の素朴な感覚と親和性がある。表現されなければ言語がないとすれば、その前には言葉は何もないはず。表現を例えば、精神世界に及ぼしたとして、誰かに表現できなかった言葉あったとしても言語の範疇ではないけど、当人の中では言語にはなっている。

 

これを言葉とみなすかどうかは人それぞれだろうけど、もっと考えると、言語が言語になる前には何があったのかって、何もなくないか。人は何も持っていないというところはここに繋がってきて、発信側の視点で見ると、言語は発信者の中で発見されたものになる。

 

これを前提として見ると、日記は日々の記録ではない。記録だったら自分の目線にカメラでもつけた方が鮮明だし。要は、自分が世界をどういう風に見ているのかを発見するための所作。だから、あくまで内側の表現でしかない。

 

僕はこういう意味で自分は分解できたから別の媒体に移行しようかなというだけ。日記を書かなくても世界は美しいし、それくらい細分化して世界を見ていることは分かった。

 

最後に縁の話。

 

僕がやたらと縁を気にするのは、対象に対する観念がずれているからだと思う。僕の中では人ってものすごい速度で移動していて、惑星の公転周期に近い。たまたま繋がったとしても軌道が平行なだけで、いずれ周期は離れる。まぁ人の精神世界は重力には囚われていないなから、意志である程度はずらせるけれど。

 

だから、縁があるうちに物理的世界でも邂逅してみたいってことになる。でもこれは僕の感覚の話であって、当人が天動説だとしたらそもそもそういうことはないか。

 

だとしたら、通り過ぎられたと思っていた人は僕が通り過ぎただけかもしれない。僕がここに居るうちになんて相手に関係ないし、相手としては僕の変化を望んでいなかっただろうし。

 

365回分の日記を書き終えた後に、全部供養して燃やすことを目論んでいる。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

中に居る人々

 

 

今日の夢は自分が何歳か分からなかった。まぁいつも年代は不安定だけど。小学校の校舎(小学生5年次に木造に新築され、今や廃校になっている)の脇に倉庫ちっくなプレハブがあって中学の同級生を含めいろんな時系列の知り合いとだべっていた。雑魚寝していてある女性がやたらと接近してきて、「近い!」って感じたことが一番印象に残っている。これはロマンチックな感情ではなく、あんまり寄って欲しくないという意味で。

 

夢に人の本質を見たフロイトさんの説も分かる。夢は精神世界の澱の深いところの一部。

 

さておき。

 

ここのところリブロさんでちらちらと呼んで来る本。吉田隆明さんの共同幻想論。ずっと前にテレビで見たときにこの人の本いつか読みたいなって思っていて、たぶんそのもの。もう5年超うちにはテレビがないし、いつ見たかは分からないけどこの人の思想が面白いなって思ったことは覚えている。今の僕の言葉だと、いつか読むことになるだろうなという本。お風呂読書枠は面白い本で埋まっているからためらっていたけど、やっぱ縁があるうちに買った方が良いか。ぱらぱらめくってみると、遠野物語も出てきて芋ずる式。柳田邦男さんも読み切っていないし、キツネ憑きでいったらこれもまだ読み終わっていないドグラ・マグラもそんな話だったような。

 

社会契約論も一周は終わった。今読むと拙いところもあるのだけど、国家が宗教と癒着した時代に現れたという意味では世界を転換した本なのは確か。この思想がなかったらまだ理由のないものが権力を持っていたかも。ただ、それをうまく扱えているのかというは良く分からないところ。根拠があるから従えるというのも割と試行錯誤の段階だと思うし。人格が発明されてからそんなに時間も経っていないような。国家の要素だった国民が個人になったのは、この思想が生まれた前後なはず。もちろんずっと素朴に人は個人だったけど、個人の思想が個人に準拠できるようになったのはここ100年くらいの話なような。今でも危うい。

 

もはや古典フェチの領域。

 

ベッカリーアさんの「犯罪と刑罰」も今となっては常識を語っているように読めるのだけど、これが常識になったのはこの人のおかげなのかもしれない。悪い奴をただ悪いという印象だけで犯罪者のレッテルを貼る権力を国家に与えてはいけないという縛り。素朴な感覚としての悪さが国家レベルで適用されていたのが魔女裁判とかだろうし。

 

今も素朴な感覚は近いところにあると思わなくもない。ニュースで出てくる裁判で、なんで無罪になったか分からないって憤る人がいるけど、そもそも報道されている事実が真実とは限らない訳で。裏付けはもちろんあるのだろうけど、訴追者である検察官が構築した物語を取材した事実であって、有罪にしたい側の主張なのだからそりゃあセンセーショナルに極悪人にするに違いない。ちょっと順番を変えるとか、強調するとかで印象は随分と変わる。そうして、そういう印象だけで判断できないようにするために創設されたシステムが刑事訴訟法ないし、疑わしきは被告人の利益という原則。

 

刑事裁判関係のことは日記にも書きやすい。テレビ見ている人には身近だろうから。犯罪とは何ぞやになってくると書きにくくなってくるけど。犯罪とは構成要件に該当する違法で有責な行為であるって言ってもきっとピンとこないし、前提知識がない人に説明するのは文字数が足りない。このまどろっこしさが良いのかも。

 

法学の話をあまり書けないのはこういうところ。他の学問はまだあまり知らないけど、いちいち前提概念があるから遡り切れない。他の社会科学学問もそんな感じなのか。美学にはそういうのは感じない、こともないか。学問である以上、どんなものにも体系がある。

 

閑話休題という名の本題

 

null 何もないって昨日の日記に対するコメントなのかなって思った。もともと何も持っていないってコメントかとの第1印象で、いや、僕には微塵も影響されていないという意味かとの第2印象。どちらでも問題ないということはまた後でだけど、こうやって時々読んでいるのが読み取れるのは何故だろう。全く無関係だったら余計に共時性だし。

 

もう1つところでだけど、たまたま日記徘徊して見つけたnellさんとそういう話したような気がするなと思った。僕が硯だった頃か森中領だった頃かは定かではないけどなんだかそんなことあったなと想起されただけ。そんなに交流があった訳でもない一瞬の交錯。もちろん、捏造かもしれないし当人もきっと覚えていないだろうけど、記憶にとって一致することってそんなに大事なことではない。しかしネルさんはずっとネルさんなのね、かなりの古参だ。

 

記憶が一致するって、生活の中に他人が居れば当たり前のことかもしれない。そういった文脈だと、なぜ相手が一致した記憶を持っていないのかって責める動機になる。僕にもそういう時期はあった。

 

でも、素朴に想うと、記憶の価値は自分がそれを覚えている意味にあるのであって、その場を共有した他人が居なくなったとしても機能している。じゃなかったら、死者との記憶は何の価値もなくなるはずで。

 

記憶されていることに価値があるという観念はここら辺にありそう。記憶は恣意的で選択的なものだから、記憶に残っているということすなわち相手にとって当人が価値あるものだとしているという観念。誕生日とかイベント毎とかの習わしとか。

 

僕の中ではえこひいきで記憶をどうにか操作することはできなくなっているから、記憶は誰かを選んでいる理由にはならない。いや、誕生日特定してもらったら毎年個人的にお祝いしますけれど。

 

印象に焼き付き過ぎた記憶って、むしろ再現性がない気がする。言葉で表することはできたとしても、そのものでは在りえない。あの時楽しかった、この人のことが好きだったみたいな一言では表現できないもの。

 

もともと持っている論の話。

 

これは何も持っていないとも等しい。何故等しくなるかという理屈。もともと持っているという観念は所有なのだろうけど、所有の概念も割と最近発明されたもので、なかなか虚ろなものだと思う。

 

これを語るには占有とか所持とかの概念も居るのだけど細かく話すと大変。簡単に言うと、近代の前の素朴な人って、家とか土地とかを所持はしていたのだけど、もともと持っているのは国家であって、そこから借りていた。それが、個人個人の持ち物だとなって所有権という概念が発明された訳だけど、こういう自由に扱える所有物を求める欲って際限がない。この際限のなさを扱うのが経済学だけど、僕が言うもともと持っているというは、物質世界の概念ではない。

 

人格にもともとそういう要素があったという意味。素朴な精神的な人格において生まれてから死ぬまでに、何かが足されたり減らさられたりすることはない。発見とか発掘されるだけという説。これがアプリオリなのかというは正直よく分からないけど、自分に無いことは見つけられないというか、見えない。

 

という意味では僕を見つけた人はだいたいやべぇと思う。

 

で、何か新たに見えるようになったとしても、それはもともとその人がもっていた要素が可視化されただけで、対象とは無関係のこと。

 

これは僕が都合よく生きるための1つの解釈だったりするから、あまり真に受ける必要はない。具体的な相手のことなんて知ったことではないとできる。普通の人は普通に知ったことではないで生きられているはず。

 

最後。

 

カントさんの判断力批判では対象には無関心でないと美的判断はできないとしているけど、それを踏まえた社会美学の本の人は自分の道徳的判断を前提としている。なんだか都合よく流用しているだけなのではという印象。

 

カントさんは美的判断を趣味判断と言っていて、趣味判断はあくまで個人的なものとしているような印象だから、人の営みに感じる美は別物なのではとか。まだ暫定的。

 

では、残り何回か分からないけど、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

余生

 

 

 

昨日の日記は直すところも補足するところもなかった。誤字もないし、もっと滅裂なイメージだったけどそうでもなさげ。とはいえ、1年分まであと30回くらいはあったような。ここまでの11カ月分を考えるとすぐ終わるだろうな。概算でたったの6万文字。あんまり継起に対して思い入れはないけど、いつか終わると分かっていないと何事も続けられないわな。そもそも終わりの概念がなければ続くの概念もない。永遠があれば別だけど。

 

さておき。

 

もやしとピーマンときのこが続いていたから違う野菜を探していたら、人参と茄子と小松菜が安かった。小松菜は残ったきのこと一緒に胡麻和えにした。味を決めずにオリーブオイルと豚肉と人参をごろごろと炒めていたらこれはカレーっぽいなと思って、カレー粉とウスターソースで味付けした。茄子が入ったカレーは実家では出なかったけど、カレー味の茄子美味しい。家で食べていたカレーはカレールーのザ・カレーだったから、あんまり覚えていない。

 

夢の話。母親と妹とか親戚筋が出てきて、妹には頑張っているように見えないとか諸々言われて夢の中の自分はまくし立てて言い訳をしていた。伝わると思ってない癖に無駄な労力。伝わるの話はまたあとで。

 

時系列を遡ってみて正月とかお盆とかに親戚が母屋に集まっているとき、我が家の母親はあんまりあっちに行くなという空気を出していて、あっちに行きたいなとそわそわしていた。親戚達が楽しんでいる場に行きたかったのかと思っていたけど、今思えば何のことはない。居心地が悪い場からよりましなところに行きたかったからだろうなと。大学で地元以外しか選択肢がなかったのもそう。

 

夢の中では母親は擁護していてくれていて、愛想よく振る舞いなさいよって言っていた。お玉がなかったという言葉の後に目覚ましが鳴ってしまったからここまでで夢は終わり。なんでお玉かは知らない。鶏小説集で親から子供に対する費用対効果論を読むと、確かに僕には一番投資しただろうし、返ってくる見込みもあるのだろうなとなって、ちょっとげんなりする。余裕ができることがあれば一気にフラットにしようと思っているけど。

 

夢から覚めて。

 

仕事していて、人って異性にはちょっと甘いよなっていう想起があった。女性のクライアントの方が若干話しやすいなって。まぁこれは仕事上の経験則だから、一般化するなら、異性に対してはちょっと扱いが違うなってことだろう。このちょっとの違いがあるときには分断になる。

 

一般論として女性の方がグループになりがちで、男性はそこまでべったりしないっていう見識があると思うのだけど、読み手としての僕は素朴な文章で男性の書き手に惹かれることってあんまりなかったりする。異性の方がより異質だからかなとも思ったけど違った。素朴な文章においてより個人であるのが女性で、男性のは社会化というものさしが共通項にあるから。自分が社会的にどうであるかを踏まえて書かれた日記は読んでも面白くない。でも、これが日記というものとも思わなくもない。小説になると文豪とか完全に社会的にアウトローで個人の中身を突き詰めた話だから面白い。ここには性の別はない。

 

そういえば、もう1つ仕事で、先生は部下の個人個人によって対応を変えている。僕に対しては、貴方の知識レベルはここまであるよね、だとしたら僕ならこう応対するよ。いや、まだそんなことないんだけど、こういう特に鼓舞してくれなくても認めてくれる人の観測圏内で過ごすのはとても楽だと思う。自分を決められなくて良いから。自分はここまでで良いんだって思う人にはちゃんとそういう対応をしているという、できる上司だ。

 

仕事の不満で、自分ができないことが理由な人ってどれくらい居るのだろう。誰かよりの相対性ではなく絶対的な意味で。自分が絶対的にできないことって、ちゃんと試行錯誤すればある程度はできるようになる気がする。もちろん職人レベルは無理としても一般レベルにはきっと至れる。

 

あぁ、あんまり書きたいことではなかったのだろうなと自己分析。

 

そうして、伝達とか影響の新説。

 

の前に、波さんとの関係の話。昨日の日記でなんで文学フリマを最後に設定したのだろうと。このまま維持すれば、次回の争いをテーマにした劇評も書くことになるだろうに。もしかしたらその先もあるかもしれない。

 

自己考察だと、だからこそ嫌なのだろうなって。きっかけは能動的だとしても関係はとても受動的だ。面白い経験はできるとしても、もはや自分が選んだことではなくなってくる。もちろん、それほど僕の劇評に価値はないのだろうなと思っている上で。ほんとは、、。

 

そもそも、価値って何かって厳密に考えると難しいところ。分かりやすいところで言えば市場価値だけど、市場価値が個人に何をもたらすのかとなると、それを所有する優越感とか、所有するために支払った所有対効果とかになるのだろうけど、これって対象そのもの価値は測れていないような。

 

自分が時間をかけたものが価値だっていう観念もちょっとバグっているような気がする。これだって価値は対象ではなくて、自分がかけた時間だろうし。結局何が言いたいかというと、価値って客観的なものではなく主観的なものでしかないということ。

 

僕は継起にも対価にも自分の価値を見出していない。自分の価値なんて無いでいい。なまじ価値が有ると思うから変なことになる。

 

こうして、伝達と影響の話。

 

誰かに何かが伝わるのは、その具体的な相手がたまたま同じようなものを持っていたくらいの意味でしかない。自分の言いたいことが伝わっているのではなくて、相手も同じような伝えたいことがあったに過ぎない。ニュアンスが難しいな。直結はしていない。

 

本を読み漁っているとそういう想念に至る。本を読むことは自由になることだってどこかで読んだけど、この自由は、自分が何であるかを分解できること。自分がかつて読めなかった本を読めるようになったとき、自分が拡がったではなく、自分にもこれを読める要素があったのだとなという感覚になること。

 

もともとなかったら、どれだけ読んでも知識にしかならない。知識として本を読むのってかなり苦行だと思われる。

 

影響になるともっと分かりやすくて、誰かの影響を受けて何かをするようになったって良く言うけど、もともとそれを現実化できるような器がなければできないこと。確かに開眼するためには外的要因は必要だけど、変な話、外的要因は誰でも何でもいい。

 

波さんの日記の節々に勝手に僕の日記の影響を感じなくもないけど、これは別に僕が居なくても波さんの中にもともとあったものだろうなというだけ。

 

僕が毎日弁当作っていると誰かに言ったとして、その誰かが毎日作れるようになるかはその人のもともと持っているものによると同じ意味。拳銃突き付けられて、毎日やれって言われたら作るだろうけど、幸せなことに現代日本はそんなことは起こらない。

 

でも、自由になる為には不自由を解消しないといけないから、ほどほどにしておいたほうが良い。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

いちいち

 

 

最近の料理BGMバンプSpica。曲調がとてもかわいらしい。プレゼントとかひとりごとも好きだけど、鼻歌に良き。あとは米津さんのアイネクライネとかMAD HEAD LOVEとか。ふと思ったのが、僕は歌の歌詞を独立した言葉として読めないなということ。歌詞考察とかできない。そういえば昔、某人とカラオケに行ったときにバンプの歩く幽霊を唄ったら、今の私にそれを唄うのかとか言われたけどさっぱり分からなかったな。歌詞は独立したテキストではなく、音楽と声とセットだから、響きを感じるものとしているみたい。ここから言えば、シェイクスピアとかの演劇テキストもうまく読めないような気がする。ひたむきな星屑のテキストも実際観劇したから楽しく読めたわけで。

 

なんの話やということだけど、自分の読み方の1つの解剖。

 

文字があるからと言って同じように文字だけで読むわけではない。日記なら日記として小説とか専門書とかそれが載っている媒体で読み分けているのかもしれないけど、そこまではまだ未解剖。でも、確かに概念を読むのとイメージを読むのでは読み方が違う気がする。小説の場合はある程度固有名詞を知らなくても大事なところはそこではないし。風景描写の固有名詞はイメージの解像度のために調べることもあるが。今日は罪と罰に出てきたマホガニーを調べた。高級木材らしい。全体像はこの木何の木の木みたいだった。ほんと世界は知らんばっかよね。かつてはさっぱり知らなかったアイブローとか。

 

少なくとも言葉の概念をどこまで厳密に読むのか使うのかは場面によって違うか。現実世界で遣われる言葉に必要なのはどれだけ現実と一致しているかだろうし。

 

さておき。

 

本日通勤の道中に元レンゲの絨毯の田んぼを見たら田植えが終わっていた。土日にやってしまったらしい。見たかったな。田植えは何回かしたことがある。足で感じるぬかるみは冷たくてどろどろしていて気持ち良かった。田んぼの土は水分が少なくなってくるともっと楽しくて天然の粘土みたいになる。穴を穿って臼に見立てて泥団子で餅つきをしたら一体化してしまってなんでだって思っていた。当たり前の話。

 

なんだか夢みたいな現実的日々だ。

 

というところで、本当にどうでも良いことしか考えない。今日は、現実世界と精神世界の構成要素について考えてみていた。現実物理世界の構成要素ってどこまでのところまで見て確固としたものだとしているのだろう。例えば、自分の肉体を起点にするといっても、手触りのある物質としての肉体なのか、さらに物質の構成要素としての原子なのか、もっといって量子なのか。電磁波とか音波とか光の波長は、とか。別に厳密性を問うているのではなくて、そもそも現実ってそれほど確固としているのかという疑問符。中学生レベルだけど、教養の化学2周目で原子が変化しないってとても不思議なことだなぁって実感している。

 

まぁ、もちろん僕はある程度の経年劣化があるので、現実という観念の文脈が物理学的な意味ではなくて社会学的なことも知っている。ままならない社会としての確固たる現実。でもこれって、本当に変えようと思えばだいたいは変えられるような気がしなくもない。諸々の事情の優先順位をつけているのは、社会ではなく社会を参考にした当人よねって。どれだけ強固でも原子ほど不変のものではない。

 

そうして、精神世界だけどこれはだいたい現実世界からの流用とかアンチテーゼなのかなって思う。相互の世界は独立して在ることはない。でもこれは物理的かどうかで分けられているような気もする。物理的にはもうないけど精神の中には存在している世界とか。

 

ここで鶏小説集が登場する。

 

世界観っていう視点で見るととても面白い小説。2章の途中までしかまだ読んでいないけど、子供視点が1章で親視点が2章。子供視点では、登場人物2人がそれぞれ自分の家庭が気に食わなくて、見てくれも似ているから交換しようかってことになるのだけど、2章では、父親それぞれが自分の息子のことが好きになれないと愚痴を言い合っている。

 

確かに、子供→親も親→子供も自分で交友を選べるものではないから、素朴な人格として相性が良くないってことは普通にありうる。社会的に親子という枠があるからお互いに変なことはしないとしても、合う合わないはどうしようもない。これって、社会的に子は親を敬うもの、親は子を保護して育てるものっていう道徳観が通じていれば現実世界においては問題なさそうだけど、この道徳感が潰えたらどうなるのかなというのは気になるところ。

 

たぶんこの小説みたいな言説は数十年前だったら書けなかったと思うし。もっと考えると合う合わないは関係なく連帯しろよっていうのが学校教育で教わるものかもしれない。よくできたシステムだ。

 

人は他人と素朴に関係しないと寂しいっていう観念も創作物なのかもしれない。どちらかという社会的な関係なのだろうなと。

 

イタリアンドレッシングはベーコンの味がする。

 

美学の本の話。この本は丸善で本の師匠が買ってくれた話なのだけど、読んでいると卒論書いておきたかったなという衝動に駆られる。学者さんが書く小説は概念がきっちりしていてかっちり読める。主人公は美のメタファーで、黒猫さんが学問のメタファーだっけ。なんだか読んでいると鳥肌が立つ。概念的に読める。

 

ではなくて、卒論の話。

 

僕が行っていた法学部は卒論が必須ではなくて、ゼミも単位の1つでしかないから卒論をスルーした。単位は3年で取り切ったので、就活ではなく院試のためにせこせこ図書館に通って12時間くらい勉強していた。まぁ勉強するだけではなく、ネットで知り合ってお昼と夜にメールだけで1年ほど文通した人とその後恋人になったりするのだけどこれはまた別の物語。

 

卒論書いておきたかったと今更思うのは、まとまった論考を書くという経験を経たかったなというところ。書いてみたかった。ゼミの発表のためにレポートは書いたけど、あんなの裁判の判決文と学説をまとめてちょろっと私見を書くだけだったし。研究とは自分で答えを見つけるものだってこの小説に書いていて、あぁ、こういう裁量ありきで書いてみたかったなって。

 

もちろん今からでも書けるし、今の方が裁量はあるけれど時機は逃しただろうなというだけ。そういう意味で楽しくしんどかったのは劇評だけど、文字制限があったし。

 

まぁこの日記も、日記という枠の制限ありきの論考みたいな節はある。日記の語彙だとそんなに厳密に概念を定義する必要がないし。

 

ちゃんと探求するなら日記では足りない。

 

そろそろ日記を書くのも収めようかなという想定もあって。あともうちょっとで一年分の文章が書き終わるから、ここまでかなというかそんなやつ。

 

日記の枠で書いている限り、日記の概念に囚われてしまう。

 

じゃあどこで書くのかは知らないけど、まぁなんとでもなる。これを言うとき、楽観と不安がセットだ。

 

そうして、最後に波さんの話。個人的にそろそろおしまいかなと思っているので、行けるか分からない次の文学フリマの時に、たぶん今回が最後だと思うのでみたいな最後挨拶を想定している。好きですって発話で言語化することと、最後に握手して下さいって言うことと。

 

色々考えるけれど、日記を観測して僕の日記を観測される関係(実際に観測されているかは知らない)よりも、もっと距離感は外の方が良いんじゃないかなって。なんだっけ、ほうき星か。

 

心地良いけど、具合が悪い。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

世界ってなんだろう

 

 

ふざけんなよおじさんにもいい加減飽きてきた。声を荒げるだけで完結するってとてもお手軽な憤りだろうなという意味で。特に物音も聞こえてこないし、フレーズもほぼ同じだし。なんというか、何も現実化してないに違いない。僕もあまり変わらないか。

 

 

さておき。昨日も一昨日もとても滅裂だった。3リットルのビールは日記を書くには許容オーバーか。恥ずかしいので昨日の日記は一文だけ消してしまった。なるべく消さないようにしなければ。自分が他人に毒だというラベルは厳密には他人に貼られたものではなくて、貼られたラベルを前提に自分で貼ったもの。しかももともとのラベルは事実のようなものだからしょうがない。基準がおかしいのである。僕はこのおかしさ在りきだから重ねてしょうがない。

 

 

ともあれ。キノコとバターとゆかりの調和は完璧だ。久々にバターを買った。品薄らしいからお目当てのよつばの無塩バターはなかったけど、雪印の切れているバターはあった。普段ほぼ和食だから使わないけど、休みの日のずぼらパスタには良さげ。バターとケチャップと酸味は覚えておこう。チューブバターは使いこなせる気がしないから買わないけど。

 

お梅雨。

 

今日は早朝6時前に目が覚めて、何か月ぶりか分からないアイスを買って食べた。牛のイラストが描かれているソフトクリームちっくなカップアイス。稀に食べると美味しいな。僕が好きだったアイスは、ソーダソーダでっかいソーダっていうカバのイラストのやつか、下がソーダアイスで上がソフトクリームのやつのだけど、どちらも今は売っていないみたい。

 

ブランチにカレー蕎麦を作って食べて、法律書読みながらFF7のゲーム実況見たり漫画読んだり諸々潜っていた。昼間の飲み物はコーヒーが良い。といっても美味しい豆のものとかではなく、インスタントでも濃ければ良いという味覚。脳にコーヒーは良い飲みものらしいけどそんなことは知らない。飲みたいから飲んでいるだけ。脳に一番良い栄養は純粋に考えることと、その後にぼーっとすること。DHAとか食べようが何しようが使わないとどうしようもない。

 

そうして、小雨の中夕方の買い出しとクリーニングの回収に出かけたら、傘もささず全力疾走のトレーニングをしている人が居た。僕が気になったのはこの人ではなく、この人が走った先にあったびわの木。たくさん実がなっていて、昔を思い出す。びわって匂いは甘ったるいけど、食べるとそんなに糖度はない。果糖が加工されていないからだろうけど、そんなに食べたい果物でもない。でもなんだか美味しかった気がする。最近スーパーでスイカも売られ出したけど、これも特にあえて選ぶほど美味しい訳ではなくて、きっと思い出込みで食べるのだろうな。別に食べてないけど、トマトの味とよく似ていると思っている。

 

食べ物の味すら客観的には認識できないという事実。まぁ五感は経験則が左右しているししょうがない。苦みとか酸味を子供が嫌うのは本能らしいし。

 

本の話。新刊枠は何にしようと思ったら、知っている人が書いている本でタイトルが面白そうだったから「鶏小説集」にした。坂木司さんはだいたいなんだか暗い気がする。1編読んだけど、他人の家庭は良く見えるみたいな話だった。なんで鶏なのかというと、1人は焼き鳥が好きで、もう1人は揚げ鶏が好きということらしい。新刊枠は最近の基準はどうなのだろうという意味で読んでいる節がある。

 

読み返し枠を家で探っていたときに、これも読んだ、あれも読んだって探っていると、この物語達が僕の無意識に収集されているのだって思うと、ちょっとグロテスクな心象風景が浮かぶ。精神のご飯は物理とは違って、栄養分だけ消化吸収して排泄するっていう循環は行われないから、無意識に蓄積されるだけ。上澄みで忘れることができたとしても、収納した事実は変わらない。循環がないことが気持ち悪いなと思う。僕は自分に知識が収納されていくことが是とは思っていないけど、より読めるようになるにはこういう残骸の塔を建てないといけなくて、精神世界の方が現実世界よりシビアだなって。

 

現実世界だとたまたま血縁だったとか、時系列が一致しただけで関係できるし、たやすく相手を殺すこともできないけど、精神世界だとそういう現実的な場所取りは全く意味を持たなくて、容易く殺し殺されることができる。書いていて辿りついたけど、この観念はとても本質的だ。僕は精神世界を現実世界とリンクさせていない節がある。

 

だから波さんが不思議なのか。まぁ、精神生活だけで場所を取っているなら何も問題ないのか。どうなのだろう。

 

読み返し枠は黒猫シリーズの一作目。美学をモチーフにした話なのだけど、なんだか最初に読んだ時より面白い気がする。自分が建ててきた残骸の塔が読み取りを精緻にしているということに気づけるのが読み返し枠の醍醐味。時間の経過だけではこういう風に読めない。

 

ランダム枠は途中で止めていた罪と罰になった。ドストエフスキーさんの文体ってネットライターにはタブーだろうな。時々一文がやたらと長い。でもそれが良き。積読していて良かったけど、たぶん上巻しか買っていないから読み終えたら買い足さないといけない。自分を見つける物語らしいから、時機にも合っている。

 

というところで、僕が自分を決めていないのは、より多くを読めるようになる為と言える。かつてのラベリングでは、ここまで読めるようになれなかった。中学校の先生が同窓会の時に院に行っているって言ったら、○○君ってそんなに頭良かったのかって言っていたけど、この評価もなんだか嫌だった。知らんがなって。

 

でも、この為って、現実世界においてほとんど意味がない。現実世界で何かしたいっていう欲求が全然ない。より面白くというのは、精神世界から零れた余剰みたいな。

 

この余剰で面白さを世界に流通させてみようかという実験的想定はなくもない。

 

もう1つ考えると、僕の日記を万遍なく読んでいる人には僕の中身が無意識に収納されている訳で、なんだかえっちぃ気もする。対同性でもしかり。相互で読むのはある意味まぐわいみたいだ。

 

これも個人的なものさし。

 

判断力批判は面白いけど生々しい気もする。美的判断力はその人がどれだけ美しさを収集してきたのか。快不快を規則にしているとのことだけど、快不快も学習によるような。

 

 

おしまい。

 

今日はまぁまぁ理性的に書けた気がする。

 

では、また明日の日記で。

 

 

 

 

あのさ、

 

 

 

昨日の日記の最後の方は何を書いたか全く覚えていなかったのだけど、また余計なことを書いておる。加害妄想もいい加減にしておけよ、と。観測圏内に置かれている訳ではなく自分が居るだけだし。

 

ここに関してはいつも理性的ではなくなるのは割と根深い自己ラベリングがあるのだろうな、きっと。いや、きっとではなくおそらくそうに違いない。僕は素朴な自分を決めないことで枷を外したけど関係における自分については経験則が適用されるから、誰かに対して自分は毒なのだというラベルがある。近くなればなるほど。

 

これを拭うのはなかなか難しいことである。まぁ素朴な繋がりの意味があまり分からないから、この認識はおおむね正しいと思われる。僕が楽しいのは相手が僕の世界に含まれることではなさそうだし。誰かの世界に含まれることは簡単にできるのだけど、それはそれで歪な関係。

 

そうとう堅固に自分の世界を構築している人ならあるいは。

 

こんな冒頭にするつもりはなかったのだけど、ままならないのは当たり前。この暗がりはある意味自在の対価だから、しょうがない。波さんにはいつも付き合わせて申し訳ないところ。だから収支が釣り合わないと思っているのか。確かに割に合っていない。

 

手がとても綺麗です。というとてもどうでも良い感想。手フェチにはごちそうさまですが。

 

 

さておき。

 

小説枠3冊が一気に終わってしまった。新刊枠、読み返し枠、ランダム枠。そういう風に調節したつもりはなかったのだけど、なにかの巡り合わせなのかな。

 

読み返し枠。植物図鑑は終始甘々だった。ピーマンおじさんはヨモギの時にピーマンくれたと誤記憶していたけど、その後に1人になってからだったのね。記憶の改ざん能力を思う。記憶が正しいって思えることってなかなか平和な人格よね。記憶は都合が良くても悪くても再構築されている。記憶が自分を作っているという説もなかなか危うい。自分が記録から取り出せる記憶なんて一部でしかないでしょうに。

 

ただ、なぜ膨大な記録の中から記憶として意識的に取り出せるのかということは自己考察の良きネタではある。これは他己考察に及ぼしても良い素材。僕が波さんに対する好意を卒業できないところでもある。何故覚えてくれていたのか。そんなのたまたまですって軽口で言ってくれれば良かったのに。

 

大人の勉強論。1人だけ賛同してくれたというかそんなの当たり前だと評したから少なくとも僕だけの見解ではない。記憶媒体として脳を使っていると、自分の時系列でどうでも良かったことも含め思い出される。凄く煩わしいのだけど、一般論としてはそうではないみたいというのがどういう脳の使い方をしているのだろうと思う。器用な人格なのだろうな。

 

ランダム枠は、宗教チックで唐突に終わった。真面目に語りだすけど、宗教って基本的に簡単に連帯感を構築できる装置だと思われる。イエスさんもブッダさんも実在したかは分からないけど、信じる対象として使われたのは確か。日本だって一昔前は王権神授だったし。ただ、個人的には古典宗教には何か人の本質が含まれているような気もしていて。考えるより、もっとおっきな対象に自分を委ねて依存する精神性は分からなくもない。だって、自分は何もしなくても良いし手っ取り早いし。儀式で求められる行為の制限も、まぁまぁどうでも良いだろうし。例えば肉を食べないとか肌をさらさないとか、あくまでどうでも良い領域の可動範囲の制限だと思う。即身仏みたいな仏教観はアウトロー過ぎてやべぇけど。だから原始仏教は好き。

 

でも、自分以外に信じられる基準があるって体系が確立した宗教じゃなくても、一種の振興ではある。基準が神様であるかルールであるかはあまり関係ない。無神論者だって何かは基準としなきゃいけないし、基準は自分だけのものではありえない。自分だけのものだと思える人が居るなら、それはかなりの世間知らずかただの天才。

 

新刊枠もある意味宗教チックではあった。神道は体系的な本がないからよく分からない。手塚さんの火の鳥とか古事記くらいの知識くらいならあるけれど。僕は巡り合わせが勝手にやってくるというような神様任せでもないし。

 

月の描写は好きだった。

 

満月三日月半月と色々言語化されるけど、月のカタチは1つしかなくて、観測している主観でしかないみたいなやつ。

 

僕はこの視点で人を見ている。僕が観測できるのは人が僕と関係してくれた一部でしかない。観測した部分で、嬉しいとか愛しいとか思ったとしても、それは一部でしかないけれど、そう思えるのは、不可視な部分も含めてだろうなという見識。

 

別に僕は僕に呈示されたものだけで人を判断していないので。比較対象にされたら、すぐ撤退できるけど。僕が離れたら良いだけなのだけど。ここができないのが情なのだろうな。

 

そうそう、判断力批判

 

カントさんの言葉はとても分かりにくいけど、言いたいことはなんとなくわかってきた。要するに、美感は素朴な当人の中では起こらなくて、経験則で何が美しいかというのはまぁまぁ決まっているということ。現代人、何が美しいかなんてほとんど見ていないと思うけど。

 

普遍的な美しさを客観的に読み取れるように人間はできていないのだろうなという暫定的認識。

 

美しさが誰かと共有できるものだっていうのは、社会美学的には当たり前だとされているみたいだけど、僕は別に誰かと共有するために日々美を収集している訳ではない。

 

ほんとは、ここから自分がどうなったら世界が楽しくなるのかの話をしたかったのだけど。

 

すべてのらべるを剥がした後に残る自分ついて。

 

 

自分がこうであるっていうラベルは、基本的に自分が貼ったものではない。

 

 

では、ここまで。

 

おやすみなさい。