生身

 

 

週末こんばんは。なんだかふわふわしている。特に何も起こっていないけど変な充足感。

 

 

さて。夢は諸々あって、最終的に靴汚ねぇなぁって言われた。確かに汚れているので洗わないとな。あと新規で追加もしたい。夏っぽいもので。服も涼しくてゆったりしたのが欲しい。

 

最近の夢を見て思うこと。夢は記憶を整理している過程での澱みたいなことを聞いたことがあるけど、ソートしているようには見えないなぁって。むしろすべての感覚で収集された情景が等価な気がする。直に体感してきたことも、テレビの映像も、小説を読みながら創った風景も。夢に色があるかというのも現実の色感によるらしいと聞いたことがある。最近どこか高いところから落ちる夢はご無沙汰。この落下感は、USJの大阪ラバーとともにある。ジュラシックパークでも良いけど、僕は絶叫系とか、落ちる系はどうも苦手だった。今は、もっと試してみたらたのしそうとは思うけど、落下感がしばらく刻みつけられそうだ。どうせならヘリコプターから落下するのが良い。

 

走馬灯は自分の生命の危機に直面した時に、自分の時系列から死を回避する方策を脳が探しているという一説があるらしいけど、ちょっと夢も似ているような。本当に充足している時には夢を見ないってどこかで読んだ。だとすれば、僕はもっと夢は見ておきたい。

 

 

さておき。

 

読み返し枠は、書庫ガチャを回して1発目は色彩をもたない多崎君で、お、と思ったけど、今は村上春樹さんとは違うかなと思って、もう一回転したら、雨月物語が出てきた。なんとなく時節に合っていると思ってこれにした。まだ読み切っていない本だから、読み返しにはならないのだけど。しかし、上田秋成の言い回しのセンス好き。タイトルの由来になっているフレーズ、「雨は晴れて、月は朦朧の夜」、晴れるは旧字で変換できなかったけど、リズムといい情景といいとても良い。月が朦朧ってなんぞやって。そうして例に漏れず、訳者の上田さん愛も読んでいて楽しい。研究ってそういうことなのだろうな。日本の古典も開拓していかねば。タイトルで言うと、蜻蛉日記に惹かれている。蜻蛉っていう字面が好み。古文って今読むととてもリズム感がある。

 

少し遡って、今日になる前。昨日の日記を書き終わって、寝る間際に巡回したら日記がまた4日分更新されていた。朦朧とした意識で急いで読んで、ルーティンで胸の前で手を組んで出てきた言葉は、元気で良かった。全然お祈りじゃないじゃんって自分にツッコミをいれて、何かちゃんと祈って寝た。

 

で、起きて、出勤中考えていたことは、「幽霊を創出したのは誰か」に出てきた、ファッションとか文化とかなんとかもバーチャルだったのだなというフレーズから、むしろバーチャルでないものってなんだろうかということ。仮想って、要は交換可能性と等しい。服は買い替えれば世界から見える像は手っ取り早く変えられる。この小説の時代は肉体も交換可能で、ずっと前のポルノグラフィティーのラララ僕がーで始まる曲みたい。空想なんとかだったような。

 

確かに、今のところ自分の肉体に交換可能性はない。だから、ここにリアルを感じることも分かる。まさに歴史の結晶みたいな部分はあるし。だから、自分のこの結晶化した肉体に付随する精神性をリアルとする気分も分かる。ただ、本当にここをリアルとしていいのかというのは個人的には疑問がある。だって、この肉体に意志は作用していないでしょう。たぶん人が意志というとき、自分の外のことを言っている。

 

仕事はとても滞りなく。こんなにしんどくなくて良いのかなって。たまたまちょっとした面談もあったのだけど、上司とスムーズにコミュニケーションしている自分が居た。この円滑性に至るためには、ということがちょっとわかって来た。

 

 

その前に。本日実家から荷物が届いて、LINEでありがとうって送って頭を稼働していたら、着信が入ってうぇって思ってかけ直した。また愚痴を聞かされるのかと思ったら、おばあちゃんにお礼の電話をしなさいっていうメッセージだけで終わった。で,

かけようとしたら、外部記憶装置であるスマホに登録されていない。内部記憶装置でなんとかなったのだけど、よく発掘できたものだ。もう1人のおばあちゃんの固定電話(もう通じないけど)も再現できたから別にえこひいきではない。

 

おばあちゃんとの会話はとても楽しかった。変な感覚だけど、自分の声を聴くだけで嬉しくなってくれるというのはとてもありがたいことだなと。なんの裏表もない言葉だったから、通話中に僕が発したありがとうは5、6回あったと思う。嬉しいって言われたことではなくて、嬉しそうという声色を見ている。

 

謝るとか感謝の言葉を発することに凄く抵抗を感じていたのだけど、この抵抗値って素朴な僕がそうしていたことではないのだろうなと思った。自分の地位を保つためにこれを遣うのが嫌だっただけ。

 

どうでも良い、いや良くないけど、昨日更新された波さんの日記の中で、同居人さんと接することで嬉しいとか、つらつら思考を発する図を想像して、やっぱすげぇかわえぇなって思ってしまう。しかし、これは何目線なのかとなると分からない。

 

僕で嬉しくなっていることがまだ観測されれば投げ続けられたかなという説もあったけど、何も信号がなかったら分からない。僕の独り言は勝手に投げられているだけと観測されたという解釈で良いのだろうな。嬉しさを供給できないのであれば価値はない。

 

もちろんそれで問題は全然ない。僕は嬉しいと言われただけでとても満たされたので。波さんが夢に出てこないのはこういう意味なのだろうな。夢の中でいちゃいちゃすらできない。ともあれ、別にこの感覚に付き合ってくれなくてもいいのに。

 

 

やれやれ。

 

僕の思考は自分にとって実利がある。考えたことは情報としては忘れたとしても跡があるから、そこをとっかかりにして芋ずる式に再現できる。考えたことを再現できないって、考えたんじゃなくて、精神世界をスケッチしただけではとか。僕もスケッチしたものは全然思い出せない。これって、内界を描写しただけだから、狭義の考えるとは違う。

 

でもなくて、自意識のバーチャル感。僕の日記を読んでいる人は僕が凄く自意識が強固だと読めるかもしれないけど、自意識も仮想のものでしかないような気がしている。

 

というのも、人は基本的に実利しか追求していなくて、その実利に含まれる他人しか認識していない。だとすれば、他人なんてその利の範疇でしか認識できないはず。

 

だったら、他人に観測される自分がその範疇に居る必要もない。

 

自分が他人にどう見えるかを踏まえて現実化する時点で自分ではないということに気づいた。僕がどうするかと他人がそれをどう評価するかは全然関係ない。

 

嬉しいと言われるのは嬉しかった。

 

まぁ、不自由だと思っていることが解放されたときに本当に自在になるのかは想像した方が良い。

 

波さんとはやっぱり余計に会いたくなってしまうな。僕の顔の表情の動きを見ているのを観測したい。これは肉体的好意とは別の好意。文章への好意とも違うからややこしい。

 

この空間を妄想したら、僕はずっと笑っているから表情の動きなんてなかろうな。

 

結局は、なんでこの一回しかない人生でみんな窮屈に過ごさなきゃいけないように見えるのだろうという不思議。

 

僕も一応三次元生活で生きているのだけど、だいたいバーチャルに見えるのは本当の自分までたどりつけてない人が多いからなのだろうな。

 

おしまい。

 

今日は変に好意を発していないはず。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はざま

 

 

今日の夢は、船に乗っているシーンと夏祭りのシーンが印象的だった。どちらもここ何年も体感がない。あと、もっと自分を出せと言われていた。僕の時系列別々の人からこういうことばかり言われてきたけど、とうとう居なくなった。この文脈でいう自分を出すというのは、自分の感情とか衝動を相手に要求することとか、自分を統合的に把握した上でその基準に従うとかそういうことだろうけど、僕には全然馴染まなかった。

 

そういう現実化に全然価値を感じない。自分が嬉しいように人が動くことを意図して稼働することを自在の範疇に含めるのは違うよなって。やろうとすればある程度はできそうなところもなかなか嫌だ。この価値の置き方でなかなか時間を消費することもあったけど、おおむね自分が遣いたいように制限時間を遣えるようにはなっている。

 

頭でっかちという評価もいっぱい受けてきたけど、思考が行動を阻害しているように見えていただけかも。今だと考えることと行動することは全然繋がっていないし、思考が行動を決めることはない。正確には、行動の後に行動の意味を考えるくらいしかしてないから、過去の自分を思考することで次に同じヘマをしないように思考錯誤するという意味合い。

 

頭でっかちに見えたのは、行動しなかったことに対しての思考を言語化したら、行動しなかった理由を語るだけだから、外から見れば、考え込むから行動できないのだということになる。ほんとは素朴にそんなことしたくなかっただけだろうというのが今の観測。

 

 

空腹だから、「おやすみなさい」を読み返している。美味しさ比率高い。規範的真面目論とか、目的論とか、クオリティオブライフ論とか、日記を被った論文ちっくな記事が多い。僕はより真面目になることで自由を感じているから微妙に違うのだけど。考えるから何かができないのではなくて、過去の思考が今の自分を阻害するという意味なら分かる。

 

そういえば、判断力批判に、合目的性という概念が出てきたのだけど、さっぱり分からなかった。今本を開いてそのフレーズを引用することだけはできるけど、咀嚼中の消化していない情報なんてここに書く意味はない。とりあえず、美的判断が本当にアプリオリなのかは、純粋理性と同じくらいに疑っている。なんの経験も踏まえない圧倒的感動みたいなことなのかな、まだ分からない。

 

ところで、「エレガントな宇宙」で宇宙は三次元と認識されているけど、ひも理論では空間が折り重なっていてもっと高次元だっていう話があった。まだその中身まで進んでいないからなんとも言えないけど、そもそも次元ってなんだろうって。僕の拙い知識だと、次元の定義は変数だったという理解がある。点が一次元で、直線は点が二つで二次元。そこに高さがついて三次元。だとしたら、現実世界って変数が3個しかないのかという疑問。たしかに空間認識で言えば平面と奥行きでいいのかもしれないけど、現実の認識がそこにおさまっているようには感じられない。そんなかくかくしたものではないし、時間によって空間がかわるとか、光とか電磁波とか、変な話、精神状態とか。現実にある変数は3どころではないような。

 

別に三次元世界観を持っていること自体に文句はない。僕自体が統合的ではないから、他人がどういう風に世界を捉えているかにどうこう言う資格はないし。ただ、その絶対的っぽいものは、最新科学では定説ではなくて、現代に浸透している一般論でしかないのは確か。世界の認識は常に過渡期だし。宇宙が高次元だとしたら、なんで地球だけ三次元なのかという疑問は当然起こる。

 

昨日の、素朴な自分の自在化のところから考えたこと。人って、思い通りに自分を現実化できない。だとすれば、こちら側から観測できる他人の現実って、仮初でしかないのだろうと。言葉でも発話でも行動でもその人の本質からはかなり乖離しているという仮説。ただ生きているだけではどれも満足いくようにはならない。のは僕が不器用なだけか。腰痛にならない呼吸法とか練習している。

 

結局は仮初だろうがなんだろうが自分にとって快であれば良いのだろうから特に気にならないことだとは思う。自分がどうであるかより、相手が自分にとってどうであるかの方に遥かに価値があるはず。この視点だと、自分を変化させることで世界が変わるという観念は起こらない。だって、絶対的な一次元だし。変数がない。

 

この流れで書くと否定的になりそうだけど、生きてきて一番嬉しかった言葉であるのは確か。

 

という前置きで、波さんの言う存在を受け入れる、の「存在」の中身について、今日起きたときに腑に落ちた解釈。①自分を肯定的に評価してくれることと、②自分の生活・現実に影響がないこと。この二つの条件を満たす存在で在る限り、肯定しますという意味なのだろうなと。これでだいたい整合的に今までの現象が説明できる。もちろん、僕が自分の中で筋が通るというだけだから、本当に波さんがどう評価しているかとは無関係の話。いつか飲むという自分の時間を使うという言はここから外れているし。

 

これが起き抜けの発想で、今となってはちょっと更新されている。経済学繋がりなのだけど、供給しないと需要されないという観念みたいな対価関係なく肯定してくれる存在ということなのかなとか。この観念は結構強そう。何も返ってこないのに、自分を存在として観測する人はきっとイレギュラー。

 

本当は違いますって言語で言われても、あんまり信じない気がする。これは現実化の自在の話。自分のこと書かれるのは不快ですって言われたらすみやかにやめるけど。どちらにせよあと少しなので。

 

なんで、直に接する人の方が本質で接していると思うのかって、きっと自己保存の生物学的な話で、生物学的な範疇だと人は本音で本質で生きていると認識される。確かに、社会的な縛りがあるところでは犯罪ちっくなことは起こらないし、安全圏ではある。善い。

 

存在の話に戻るけど、僕が波さんの全存在を肯定しているのかというと微妙なところで。例えば、仮定的に恋人になったとして、自分の為に僕の本を読む時間を減らせって言われたら、きっと何か違うと思ってしまうことからすると、同じくらいの意味でしか存在を肯定していないと言える。

 

となると、物理的な造形に対する好意はまた別なのかとややこしや。おやすみなさいのワンポイントの白Tシャツを着ている写メの鎖骨がとても美だった。

 

人が人を大事に想う概念の現実化って、現実的に費やせることなのか、頭の中の占有率なのか、どっちだろう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

原動力

 

 

 

昼休みに社会美学の代わりを探しにリブロに寄ったけど(というか毎日寄っている)、新刊ではないらしい。しばらくよく分からない枠は1冊抜けた状態か。と思っていたら、そんなことはなく。帰宅ルートがちょっとしたことで変わって、あぁそういえばこの道だったら古書店に寄って帰ることができるなと気付いた。軒先にある50円棚にデカルトさんの方法序説とルソーさんのエミールあってすごく惹かれたけど、いかんせん今文庫本枠は満杯なのでやむなく断念した。

 

認識に依って世界が拡がるという観念を素朴に感じるのは、本屋に行ったとき。膨大なタイトルが並んでいるけど、読める本か読みたい本しか目に入らない。他の圧倒的な数の本達は開拓していないか、一生出逢うことがことないもの。この死角って人生とも並行的なのでは。

 

そうして、見つかった本は、「エレガントな宇宙」 社会美学が感性でしか捉えられないものだとしたら、宇宙論は概念でしか捉えられないものだから、なかなかバランスが良い。人は宇宙が在ることは知識として知っているけど、体感したことがある人はほとんど居ない。にもかかわらず存在が当たり前になっているのは何故かというと、たぶん、在ってもなくても実生活に特に影響がないからだと思う。天動説から地動説に変わったことで影響を受けたのが宗教関係者だけ、とは言わないけど少なかったことと同じ。宇宙が在るかないかより、今日の晩御飯の方がきっと価値がある。

 

相対性理論がとても大きなもの、光とか宇宙を対象としていて、量子力学がとても小さな物質を対象としているから、統合的に把握できなかったらしい。それを説明できるようにした超ひも理論のことが語られるという前書きを読んで、まだ少し早かったかなと身構えたけど、続けて読んでいると物理とか化学の素養がない人向けに書いたって言っていてひと安心。

 

なかなか面白く読めそう。

 

実生活の話。

 

今日仕事し始めときに、あんまり声が聞こえないんですけどって言われて、調子悪いんだなって自覚して、昼休憩のときに考えたのだけど、自信がないことって体調と同じくらい自分の肉体を左右する現象なのだなと。僕は基本的に対人での自分の表現に不信感があって、声が通らないことも自覚があるから、そう言われたらやっぱりそうかという悪循環になる。声に感情を載せるとか付け焼刃だし、聞こえないって言われたらごめんなさいってなってしまい、余計もごもごする。

 

ただ、ここの調整も分かってきたから、昼前には挽回できたはず。

 

言語も発話も行動も、具体的な対人関係だと、自己表現には違いないけどもっと適切な意味当ては、相手に自分の存在を示すということだと思う。僕はここが欠けていたなと自覚している次第。なるべく存在していないような存在で居たかったし、自分が観測する自分の存在観もやたらと薄い。

 

僕にとって大人になるというのは、ここかもしれない。存在しているのはしょうがないから、中身はともあれ存在観は示すということ。言語も発話も体の動きも、存在の前に居る自分を世界に自在に出すための道具ぐらいなものでしかない。波さんを都合よくリハビリ的に使っているのかもとか。存在の概念についてちゃんと考えたのはこの人の言葉のおかげ。存在の定義を一向に教えてくれないのが何故かは好意を抜きにしても気になっている。観測値の話かいな。

 

忙しそうだから仕方がないけど空腹です。

 

言語。よくもまぁここまで綴れるようになったものだ。それほど語彙が増えている訳ではないけど、これは訓練と、存在を示しても観測してくれる人が居るという学習が強い。ウェブライターの文章がうまくいかなかったのは、そういう風には窮屈だから書けないというだけ。いや、基本的な文章作法が分かっていないという説もあるけど、仕事でも楽しく書けたこともあったから一概には言えない。

 

発話。本当は特に苦ではないような気がする。でも、発話での言葉って、存在としてはとても曖昧。いや、だからこそ、誰が発するかが大事であって存在としては一番重い? 分からない。仕事で話すということにおいてはまぁまぁ自在になりつつある。

 

行動。漫画アプリで読んでいるサッカー漫画が科学的、いや力学的になるのか、人の動きを解説してくれて面白い。歩き方とか、体を壊しやすい走り方とか。別にスポーツなんてもうしないけど、こういう物理的なメカニズムさえ把握できていないという拙さ。

 

であるならば、意志を行動に過不足なく載せることってめちゃくちゃ高度なものではなかろうかという応用。思った通りに体が動かせないことを実生活にすることも良いけど、だったら調整が必要。これは自戒でしかない。もっと自在に動かせるのではと。

 

もう少し時間があるから、何にしようかな。

 

実生活という概念って拘束ありきなのかとか、幻想とは世界への同化だったとか、なんで他人と直に接しないと他人を感得できないのかとか。

 

実生活で良いか。いや、もうだいたい書いている気がする。

 

僕は実生活=現実みたいなことに価値を置いていない。置いてなくてもルーティンに齟齬がないのだから、なかなか良い肉体をあてがわれていると思う。欲求も切なさもだいたい自己処理で良いし。

 

人にとって、どうしても外せないポイントがどこにあるのかが気になるところ。

 

そういえば、昼休憩の時に、自分の手についていたバッグの紐跡を見たときに、自分のフェチってそうとう質悪そうだと思った。

 

まぁ、こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

感性

 

 

 

なかなか壮大な夢を見た。あまりにあんまりだから全然言語化はできないのだけど、行ったことがないところや見たことがないものや感じたことがないものをたくさん体感した。夢も1つの体感。過去も体感。未来だったって体感として想像することはできる。物語だって体感として良い。では、どの体感が最も価値があるのか。個人的には任意だと思うけどどうだろう。

 

そういえば、過去観の話。起き抜けに思い付いたのは「いま」の特権について。過去のそのときの自分より当時の接した人のことが認識できる。僕が家族以外で一番長く過ごした人にどうして惹かれていたのか。とても意志的に世界を認識していたから。特に本とかも読んだことはなく、先天的に。とても夜型というか、不眠症で、一日がいつ始まるかが決められないから便宜的に日が昇った時を一日の始まりにしていると言っていた。

 

ただ、その意志的世界認識が強すぎて、学校生活とかの社会生活ができなかった模様。過去はあんまり知らないのだけど、バランスが不安定だった。当時の僕は一般論で曇っていたからうまくはいかなかったのだけど、発話の言い回しの良さが今となってよく分かる。二回目に逢ったときは随分違う人になっていたけど、そうではないのかもしれない。この経過を通さないと今の自分はないということ考えても、悪いことしたなって感想。

 

ともあれ、こういう全く何のためにならないことを考えるとき、今の特権だなと思う。別にこれは過去を美化しているとも違うから、美化された過去として自分が誰かに残りたい人にとってはちょっと違うのかもしれない。ちゃんと関わった人に対して、あの人良い人だったみたいなラベルは貼れないし。

 

僕にとって過去は無為に過ぎ去ったものではないから、そもそも褪せるとかモノクロになるようなものではない。だから同じ時と過ごした人と過去を語り合うことが馴染まなかったのか。踏まえて今どうなんだということでは。

 

ただ体感を共有するだけの関係の価値があまり分からなくなってきている。影響を受けてなんぼじゃないかって。自身に気に食わないところあるなら余計に。

 

過去を美化するという観念も一種の幻想ちっくではある。共同幻想論が言う幻想論はよく分からないけど、おそらく、自分と世界の乖離が要素にある。子供は世界に対する認識が薄いから、イマジナリーフレンドを創出するとか。共同幻想論は予兆の話になっていて、なかなかおどろおどしい。今のところ柳田邦男さんの思想の解説文なのだけど、もっと面白くなるはず。

 

 

で、過去の美化を考えると、これも自分を時系列で乖離させるという意味では幻想だろうなぁて。なんで美化するのかって、言うまでもなく、今の自分より良い時系列があったという観念。どの時系列の自分にも「いま」しかないから、今をどうにかすることにエネルギーを使った方が良い。他人事論。

 

この美化って、美学的にどうなのだろう。どうやら美学の起原はカントさんではなく、アリストテレスさんらしい。感性的に捉えた世界を省察することとか。原文あるのかな。ぜひ読みたい。

 

そうして、社会美学の本も読み終えた。たぶん読み返さないけど、好きなフレーズもある。観念的に捉える世界と感性的に捉える世界では、後者の方が狭い。確かにそう。ただ、この本に書かれている社会美は、どうも観念で捉えた快を感性的に後付けで捉えるって感じだからしっくりこない。

 

ここでいう快って、生活を積み重ねたものに感じる快って感じ。確かに良いなって思う。人の営みの息遣いとか、ちょっとした善意とか。ただ、これってほんとうに感性で味わっているものなのかという疑問。カントさんは美的判断を自分が美だと感じたことは全人類に要求することができる主観的妥当性があることだと言っているけど、これだと逆になる。善いとされていることに感性が気付けるようにするだけでは。

 

そういう試みっていう学問なら分からんでもない。

 

快がなんであるかの追及だけなら、昨日のスーパーの店員の女の子に接した自分と変わらない。そういうえば、今日の女の子は同じく早かったしかわいらしそうだったけど、どうも合わなかった。昨日の女の子なら急いでいても手が触れるようなヘマはしないだろうとか。

 

幽霊の話はどんどん面白くなっていて、実際に接したとしてもその人が幽霊かどうかなんて分からないよねっていう哲学の話になっている。人間は何をもって人間と定義しているのかという命題については、ずっと考えているのだけどよく分からない。

 

物理的生物学的な人間を人間とするのが一番わかりやすいけど、これでも、では、胎児は、受精卵は、精子卵子ではとななってくると、どこかで選択しないといけない。

 

そうして、自分が直に触れる人としか人としないという定義も強固で確固としているけど、それでは世界を生きられない。

 

じゃあなんだって言ったら、影響値と観測圏内で選んでいくしかない。ニュースでいくら人が死んだって、自分の観測圏内の人が死ぬことと比べたらたいしたことはない。大したことがある人は毎日ふさぎ込んでないといけなくなりそうだし。

 

あぁ、これが観念の世界観なのか。とても不透明な世界だ。

 

要は、相手が幽霊かどうかなんてあんまり問題ではないということ。

いや、僕がか。

 

波さんの語彙が好きだから、きっとてきとーなことは言わないと捉えている観念と、日記の文脈でどうでも良い人にはてきとーにはぐらかすという観念のどちらなのだろうなとは思う。存在としてはどちらも幽霊みたいなものだから、どっちでもええかなという感じ。

 

幽霊って、意志が肉体から乖離したものらしいし。

 

 

はい、おしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

選択肢

 

 

 

「幽霊を創出したのは誰か」だった。順番は大事。文章では少しは直った気もするけど、倒置法のように話す癖がある。思い付いた単語で話すから、全然通じない。順を追って組み立ているとか主語と述語をちゃんとするというのがとても苦手。発話でも矯正中。

 

思考の順序は変えられないけど、表現にはラグがあるから。

 

 

さておき。

 

今日は涼しい一日だった。昨日の日記ですっきりしたからかなかなか気分が良かった。出勤ルートで見かける手のひらに乗るくらいの大きさで一輪しか咲いていないピンク色のセイヨウアジサイかわえぇなと思っていたら、道中のごみ捨て場で同じくらいの大きさのネズミを見かけた。ネズミは朝方なのかな、ずっと前に新大阪の地下でも見かけた。視界にちょろちょろしたものが目に入るとどうしようもなく焦点が絞られる。

 

帰り路。最も早番だから空は明るい。スーパーの店員さんにも良しあしがある。僕はだいぶ若いだろう女の子の店員さんが良い。かわいらしいからというよりも、とにかく早い。気を抜くとタイミングが合わなくなるほどきびきびしているし、クレジットカードの読み込み時間の15秒くらいの間に清算用のかごを移動するとか、他のこともやっている。ちなみに愛想はそんなに良くない。けど、それも良い。若さとか顔とかでハードルを下げることはなくて、最低限のことをしてくれて手際が良いのが一番良き。社会美があるとすればこういうところだろう。必要な動き。

 

しかし、野菜は微妙に高い。めぼしい野菜がなかったから追加はせずに、メインは鶏肩肉ともやしと人参のウスター炒め。副菜は残っていた茄子1本の皮部分に格子状の切れ目入れて一口サイズに切り、ごま油、醤油、ほんだし、しょうが、お酢を加えて混ぜながらレンチンして最後に胡麻を加えたもの。煮物なのか酢の物か分からないけど、とろとろして美味しかった。

 

行動日誌は終わり。いや行動日誌だと、民法では公序良俗違反とは何ぞやとか、民事訴訟法では弁論主義とか、刑法では因果関係としての危険の現実化とか、諸々も入ってくるけど省略。それぞれ面白いのだけど、この場にはそぐわない。

 

ともあれ。精神世界的日記。

 

最強の休息法という本をちらっと立ち読みしたときに、気付けば考え事をしている状態は脳に疲労がかかっているということだった。あんまり精読していないからなんとも言えないけど、ここでいう考え事っておそらく、自分に関係がある、考えてもどうしようもないことであって、全く無関係のどうでも良いことではない気がした。

 

というところで、思索の始まりは、「一週間は何曜日から始まるのか」というしょうもないこと。カレンダーとかシステム関連はだいたい日曜日が始まり。今週のアクセス数は日曜日からだし。そうして、学校とか暦通りに働いている僕みたいな人は、始まりは月曜日だとしている人が多いはず。で、暦通りに働いていない人にとって始まりはどこなのかみたいな。

 

もちろん、一日も一週間も一年も円環構造だからどこにも始まりはない。辿れば生まれたときだけが始まりかも。僕は何曜日に生まれたのだっけ。でも、どこかに暫定的な期間としての区切りがあった方が分かりやすくはある。

 

もうこの時点で時間の観念が個人レベルでずれていることは分かるのだけど、もっと言えば、一ヵ月に一回しか接しない人との時間はどうなか、何年越しかに会った人ならと考えていくと、結局客観的な時間ってそうとう恣意的、というか、今から逆算、順算できるものでしかないのだろうなって。自分が何年生きているかも今からしか測れないし。

 

この感覚も僕が都合良く生きられるための道具なので悪しからず。

 

 

そうして、規範と規則(ルール)の違い。この時間感覚が規範ぽいなっていうところから。

 

規範っていう単語は法学やってなかったら知らなかっただろうな。哲学用語のような気もするけど、哲学だと当為とか図式とかもっと分かりにくいものがある。規範とはの定義もよく分からないところだけど、これこれはこういうものであるという一種の命題で、義務としての行動にかかるものという手触り。

 

規則はふつうに分かりやすくて、確かに義務なのだけど、ルール違反に対して制裁というかペナルティがあるもの。就業規則しかり、その場にいる限りルールには問答無用で従わなければいけない。

 

 

規範は規則よりちょっと緩くて、従うか従わないかは個人が選べる。道徳規範もそういう風にすべきという観念はあっても従わなくても何のペナルティない。現実的にはともかく。

 

法律が規範を問題にするのは、国家という枠内でのマイナールールだから、それが嫌なら離脱する自由もあるということとセットなのか、うーん、ここまではまだ良く分かっていない。

 

選べる行動準則という意味で言えば、時間をどの単位で捉えるかも同じようなものだなと思っただけ。

 

 

ところで、「幽霊を創出したのは誰か」はなんだか読んでいてどきどきする。発想が刺激される感じ。この感じは誰かさんのボーダー論を読んだときと同じ。需要はほとんどなさそうだけど、この筋の文章が旨い。

 

近未来SFで人は人工細胞を取り入れて寿命問題は克服された世界観での幽霊観。幽霊という観念を発想しようとした需要はどこにあるでしょう。

 

幽霊を幻想としたら共同幻想の話にもなってきそう。共同幻想が発明される条件は、覚醒していなくて、うんたらかんたらみたいなことがあった。覚醒という単語は、カントさんもヘーゲルさんも使っていたような。何に気づけば良いのか。

 

幽霊の需要。たぶん、現世とは違う世界があるという願望なのだろうな。地獄は現世よりひどい世界があるということだろうし、天国は死んだあとにはもっと良くなるみたいなことだろうし。

 

僕は幽霊を信じていない訳ではないのだけど、一向にそういう体験がない。金縛り的なものはあるし、そこで良く分からない存在が知覚されるということもあるけど、夢と変わらんなという感じ。

 

この先だけど、熱力学第一法則だっけ。エネルギーは循環するというのを見たときに、いや、ほんとかって思う。人のエネルギー源ってカロリーではない。確かに物理的な肉体のエネルギー源はそうだろうけど、だからとて、お腹いっぱいに食べたら自分が想い通りに行動できるかというのも違う。

 

人の体をほんとに動かすのは、意志だろうと。匂いすら物質として可視化されているけど、意識はまだ捉えられてない。これって、まだ人間に物質として認識できていないものがあるのではないかって思う。スピリチュアルな意味合いではなく、歴史の話。電磁力は原始人にはコントロールできない不可視化なものだったのに、今認識できるものが世界のすべてだと思えるのはまぁまぁおこがましい話。

 

意識がどうあるかは解明できても、なぜあるかは今のところ分からない。結局不可視な部分はどうしてもあるということで僕としては問題ない。

 

あと思ったのが、僕は規範的生きている人に対して不自由に生きているように見えるのだろうなというところ。ある空間で生きるためには規範に準則するのは正しいとしても、自己空間の中で規範的に生きてどうするんだって。ここにおいては自分がどうあるべきじゃなくて、自分がどうしたいかという話だと思う。

 

とりあえず、最終日までひたすら分解しよう。

 

では、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

捉え方

 

 

「誰が幽霊を創出したのか」を買ったときにレジにキングダムの最新刊があった。買えばよかったけどスルーしてしまった。何故だろう。たぶん買っても今日は読まないからだろう。

 

なかなかのいい天気。しかし引きこもり。そろそろもっと引きこもらねば。そして、母親との通話。緊急事態宣言が解除されて出かける人が多くなったことに対する苦言についてはおおむね賛同。ちょっとそういう系の記事を見ると、感染力が初期の10倍になっているとか。怖や怖や。いやそういうことではなく、なんだろうな。あんまり書かないでおこう。

 

あと、やっぱり愚痴を聞かされた。やっと他人事的に聞けるようになったから僕としてはどうでも良いのだけど、言霊から考えて、その言葉を聞かされる愚痴を言っている当人はたまったものではないなと思った。ご飯を作る気力がないとか、あの人たちは悪い人だとか、精神世界を害する言葉ばかり使われている。自己表現の言葉が発見だとしたら、かなりのブレーキ作用。

 

もちろん愚痴がストレス解消になるというのも分かるのだけど、本当に解消されているのかという疑問もある。愚痴を聞かされていると、なんというか、自分は穴なのだろうなという気分になる。僕が誰かさんに発したのも愚痴だったのかな。だとするととても失礼なことをした。

 

愚痴くらい言っても良い、のは確かだけど、これだと当人の世界におけるしんどい比率は変化しないよなという感想。世界が不変で良いのならそういうことなのだろうけど。

 

さておき。

 

波さんの日記が一挙に更新されていた。やはり節々美味しい。で、文章における美味しさについて考えた。この美味しさは初めて読んだときと変わっていない。これが好意にも通底しているからここを解明しなきゃならないのけど、これって、「どのように」美味しいかは言語化できても、「なぜ」美味しいかは言語には馴染まないよなと。

 

物理的味覚と完全に同じだとして、自分はこういう味付けが好きで、その味付けに近いっていう言語化はどのようにの文脈でしかない。こういうストーリーが好きだとか、こういうことを語っているのが好きだとか。この文脈であれば、意味の揺れと哲学っぽさが美味しいとは書ける。

 

では、なぜの領域だけど、好きな人が書いている言葉だからじゃ後付けにしかならない。何も関わっていないときに読んで美味しかったのだから。あと、僕は初期からコメント返し要らないって言っていたはず。

 

それに、美味しい時と美味しくない時もあるし。SO LONG GOODBYEのパンフレットの文章美味しかった。

 

文章に味があるなんて良くわからない話だろうし、それが商業的に価値が付けられているのかもどうでも良い話。美味しいものは、醤油のパッケージに書かれた文章でも美味しい。実際は別に美味しくはないけど、誰が考えているのだろうと思った。なんとかが認めた物質しか使ってませんっていうフレーズはちょっと好み。米のパッケージにも銘柄の説明がある。青天の霹靂の「青」は青森の青ですとか。

 

あと、ちょっと日記で気になったのが、想像の話。見えないところを想像で都合良く補完して盛り上がるみたいな。いや、確かに一般論としてはそうだと思うけど、ネット恋愛というフレーズが出てきたからなんとなく。

 

僕がマスクフェチなのは、その下を想像するとかではなくて、単に隠れているということに対して。布面積が広くて体の線が見えない装いに惹かれるのもそうだけど、当人が隠そうとしている意思が良いなって。僕は見えている部分でしか判断できないし。ちなみにマスク外した現物も見ている。凛としていました。

 

僕が想像力を働かせるのであれば、基本都合が悪い結論だから、最初の時点で終わっていたこと。何も思うところはないっていうのは最初に想像している。なんで引き延ばしたのだろう。想像は悪い方ににしか働かない。妄想だったらまぁまぁ良い想いができるけど、これだと現実に全然繋がりがない。

 

全然シビアに見ていましたよとは書いて置きたかった。

 

それとお祈りは無関係だし。要らなそうでも勝手にすることができる。

波さんの現実なんて知ったことではない。

 

ともあれ。

 

人が自分のことを知った気になっているのは、とても不思議。自分はこういう人だって決めたのは誰なのだろうって。その齟齬を感じる人が気になるのかどうかは知らない。自分の話だと、自分の性質として、人に教えることが好きなのだろうなというのを見つけた。自分のことは語らないから、相手が欲しているものを過不足なく伝えられたら嬉しい。相手が持っている知識量とか経験とかで説明の仕方は変わるからとても難しいのだけど。

 

あぁ、なにげない日記でも、読んでいる人を想定しているかどうかって分かるような気がする。言葉って伝える道具としての第1目的があるから、自分に伝えるための言葉なのか、誰かに伝えるための言葉なのか。

 

どうでも良いけど、いちばん最初って表現としてはおかしいのは知っている。頭痛が痛いとか同じで。でもこの表現は使ってしまう。最初はいっぱいあるけど、その中で一番っていう意味で。

 

では、あと一ヵ月くらいお付き合い下さいな。

 

おやすみさない。

 

 

 

 

 

 

かいたい

 

 

 

朝コンビニに行ってアイスを買ったけどまだ食べていない。晴れていたからイチゴのかき氷にした。明日起きてから食べるか。頓着がない。

 

昨日の日記は別に余計なことは書いていないけど、読み返すとやたらと生生しい。物理的な素朴な自分なのか。しかし、傷付いているというのはないような気がする。我ながら嫌な表現だ。

 

あと、観測していることと責任云々は全く関係ない。別に重ねて書く必要もないと思うけど、返ってくる期待の為に観測するのは根本がずれている。ただ、読み手として概念のずれは気になるところ。べき概念とため概念と、本当はそういう風に生きていないだろうと。

 

まぁ、そこまで概念を気にして生きている人なんていないのが普通。僕の現実世界にはもっと概念に厳密な人が居るから僕なんてまだまだだけど。先生の概念観にはとても救われる。もっと厳密で良いだって。とても良き現実世界。

 

昨日、位置概念のことを書いたけど、別に相手は時空の哲学を読んでいる訳でもないし、前と言えば未来で良い。ちょっと話が通じそうだって見込みで書くからずれる。空間の概念も、結局はもともと在る客観的なものではなくて発明品なのだけど、この発明品の中でしか人は生きられない。ほんとか?

 

僕は人の言い回しは気にしない。ら抜き言葉とか、的を得るじゃなくて的を射るだとか、そういう語用の精確性なんて、正味どうでも良い。ほとんど誤字しない波さんの誤字はなかなか味わい深いけど。いつの日記だっけか。

 

ではなくて、概念の誤用は気になる。ここでいう概念とは言葉を扱う前のまとまった観念というか。目的と評すると生生しいから、趣旨としておきたい。趣旨って法学界隈でしか見たことないけど、とても良い概念だと思う。ざっくり言うとその規定はなんのためにあるかとうことで、そういう言葉をなんのために使うのか。

 

そうそう、波さんの本当の観測理由は、単に美味しいからだと思われる。現実世界の美味しいと精神世界の美味しいとの違い。前者は、必要な摂取の中の趣味みたいなことでしかないけど、後者は自分の精神世界に直接変化を及ぼすこと。波さんの日記とか文章は、僕の精神世界を変化させた。この影響力の多寡で表現を変えている説もある。

現実世界で誰かと一緒に居ることに価値を感じなくなったのは、とても非効率だから。興味を感じる人が隣に常に居ることは良きことなのかもしれないけど、それは自分が決まってからの話だし、自分は相手を決めたくもない。非効率というか、限定されている。生身は1つしかないし、生身の行動範囲もそうとうな限定がある。

 

でも、生身の世界をすべての世界とする必要もなくて。

 

これだと、中世の世界観と等しい。人がやっと個人になったところと変わらないような。

 

 

ともあれ、今日もなかなか生生しそうだ。

 

社会美学の本はだいたい分かるけど、やっぱりカントさんの系譜とするのはおかしい。生活に感じる美は、感性的快でしかなくて、問答無用の美とは違う。この美を感じるためには、ある程度の生活をしていなくてはならなくて、だとしたら後天的な、倫理的な美であって、カントさんの論だと善の範疇だと思った。

 

僕が善に全く価値を感じないのは、こんなの生きていれば当たり前だと思うし、善の概念がめちゃくちゃゆるゆるだから。電車での席譲りが美しいとは思わない。

 

これを美学の範疇に含めたらダメだろうという感想。

 

そういえば、僕の写真観に衝撃を与えたソールライターさんの写真展が京都であるあるらしい。お誘いしたら一緒に行ってくれるだろうか、いやそんなことはない。(反語)

 

社会美学の本の気にくわなさは、人がため概念でしか生きていないとしているところ。どこかに行くための移動の道中でとか。経済学と一緒で、そういう風に限定した領域なのかもしれないけど、これが1つの学問領域になっていない意味は分かった。感性的快が結局社会的なものでしかない。

 

やれやれ。

 

共同幻想論はやっぱり美味しい。

 

禁制論のところを読んでいるのだけど、フロイトさんの人間の考察が拙かったという話が面白い。フロイトさんは、人間の精神世界を歴史とパラレルに捉えて階層的なものと捉えた。でも、現実としての人は、現在の精神世界しか観測できない。

 

確かに、自分の精神性がこの歴史から生まれているって解析する試みをしようとする人はほとんどいない。あくまで今が全て。

 

 

僕の見解でも、人は概念ではあるけど、学問ではないという感じ。

 

学問ってハードルが高いように見えるかもしれないけど、時間がかかるというだけな気がする。その時間に見返りがないからやる意味もない。

 

意味とか価値とか、素朴に世界を観測していると、人はそんなこと全然気にしていないように見える。快適か義務かでしか生きていないような。

 

もっとこまごました話を書きたくなっている衝動もあるのだけど、別に書かなくても良い。

 

僕は別に人に対してもっと発話したかったみたいな後悔はまったく起こらない。言いたいことが言えないのはむしろデフォルトだし。語彙ではなくて概念の細分化の話。細分化してない人には言えない。

 

あと、僕は精神世界において境界線を置いていないところある。物理世界では肉体に依存しているし、精神世界も物理的世界観を前提としている人がほとんどだろうけど、なんかすごくめんどくさく生きているなぁって思う。

 

まぁ、結局は、何を基準として生きるのかという話。

 

ちなみに僕はなんのためにも生きていない。

 

では、おやすみなさい。