ほんとのところ

 

 

 

昼休憩がおやつタイムくらいの時間。雲でフィルターがかからないと直視できない太陽の光。とても真っ白。都市計画なのか駅ビルの庭に咲いた花にはちゃんと名札が付いている。なんとかキク。頭の中に画像的には名札の記録もあるのだけどなぜか言語化できない。

 

さておき。

 

今日の夢の舞台もやはり実家をモチーフにしていたのだけど、なんか立体感がおかしかった。廊下がやたらと狭し。そして、なぜか出てきた羊と馬。羊は見かけただけだけど、馬は撫でた。現実の馬の気持ち良い部分は定かではないけど、鼻面を触っていたらとても気持ち良さげだった。笑う馬。飼育係(ここでは妹だった)が、撫で方を教えてくれようとして、まぁ大丈夫かという感じで何も言わない。その後もりもり草を食べている姿を見て、とても気持ちが良かった。

 

しかし、感触はなかった。夢で感触があるときとないときの違いはどこにあるのだろう。まぁ現実でも同じか。自分の体が接するすべての感触なんて感じてられない。

 

なんのメタファーだろう。なんでもいいけど。

 

リアルの話。

 

後ろにある半月をちらちら眺めながらいつものスーパーに寄ったら、たまたま推しの店員の女の子が買い物用のかごを入り口に片づけていて、少し待つかと思って立ち止まって居たら、かごを渡してくれた。これだけだとなんとも思わないのだけど、ちゃんと取っ手を立てて持ちやすくしてくれたところにぐっとくる。ついでにいらっしゃいませの発語。思わずありがとうございますって言ってしまう。やっぱりすげぇなぁって思う。我ながら基準がおかしいけど、こういう、枠の中で許されている限りの最大限をやってくれることはとても気持ちが良い。別にやってもやらなくても良いし、それを見ている人なんてほとんど居ないだろうに。

 

たぶんお客さんのこと結構覚えている人だろうなという想像。願わくば良き客として認識されていればよいけど。

 

(あれ、なにやら変な既視感)

 

コンビニの店員さんも結構客のこと認識している。これは経験則だけど。あえて覚えている感を出さないまでも、行動が省略されているのが見える。僕はマイナーな煙草頼むから余計に、今日は買うのかなって思っているかどうかでよく分かる。知っていそうな人には銘柄で、新人さんとか留学生には番号でとか。

 

何のリアルだこれ。

 

もう少し遡り。向かいの同僚さんとの雑談は楽しい。別にそんなにいっつも話すわけではないけど、興味持ってくれているのだろうなということを表してくれるから、僕も同じ水準で返す。受電が入れば途切れるのもなかなか楽しいこと。

 

なんでこの仕事選んだのだって聞かれたから、近かったからって答えたけど、そんなんが基準なんかいってびっくりされた。その先を話す前に途切れたから説明はできなかったけど、まぁそう捉えてもらって問題はない。

 

そもそも、仕事ってそういうものではなかろうか。やってみないと中身なんて分からないし、何か理想を前提とするほどあれだし、基準を増やすことで何か有利になることもない。なにせ一番は、中身に居る人たちの人間性だったりするから、どんなに条件が良くても運ゲーみたいなところがある。

 

もっと言えば、人生という、自分が自分であることすら自分で決めたものではない。これだってやってみて、というかやらざるを得なくて折り合いをつけているのだから、この流れでの選択的意志の脆弱性よ。もちろん雑談時間がもっとあったとしてもここまでは話さないけど。資格試験の勉強をしているから時間を確保できて負担がない仕事であればなんでも良かったし吟味する時間も無駄だったということくらいは言うかもしれない。

 

そうして、興味のお返しに、一ヵ月くらい前シフト云々の話をしているときに7月の連休に追加で休みを入れて、どこか旅行に行くって言っていたから、行先決めたんですかって聞いてみた。

 

遥か北の島に行く予定を立てているらしく、なんでそこに行きたいかというと自然が綺麗だからとか。とても良き趣味。

 

ちゃんと現実でこれくらいの疎通は取れる。ただ、思うのは、僕にとって会話ってヒアリングするための道具なのだろうなと。会話で本音が言えた経験則が一切ない。どれだけ物理的関係で近くても、というか近ければ近くなるほど言えなくなる。これって、たぶん、感謝とか好意的発言が自分への効果に直結するからだろうな。いや、そんなことの為に言動してないってなってしまう。いや貰えるものは貰っとけっていう観念も分かるけど、僕はそういうの駄目だった。だから、近しい人との会話は薄くなる。薄いの意味は、いちいち自分と相手の文言を考えなくて良いから、再現できないということ。ある意味とてもバーチャルな世界だった。確かに、これが生活だって定義されたら、うむ、とてもよく分かる。貰うために与えるとか。

 

まぁ良いとして。

 

定義の話。

 

読みたいように書けば良いっていう本を立ち読みしたのだけど、その中に、定義したものは忘れないというフレーズがあった。その一例として、趣味の定義があり、切手の収集癖について手段と目的が逆転したものとか書いていたのだけど、これって網羅的に定義できているのかと。確かに一部の定義はできているとは思うけど、だったら旅行は何の手段なのか。

 

僕は国語辞典的な定義は枠だと思っている節があるからなのかもしれないけど、定義は結局人それぞれでしかないと思う。

 

趣味の網羅的定義は、目的とも手段とも関わらないものに対する選好で良いような。何かの効果を求めるのであれば、それは啓発ないし、ストレス解消の道具になる。これはカントさんの判断力批判からの流用。

 

で、罪と罰を読んでいて思うこと。ドストエフスキーさんは、人の頭の中身に自分と同じように文字が溢れている風に観測していたのかもしれないという観測。手紙も発言もいちいち長い。

 

僕としては、人の頭の中に文字はないという説を推したい。書いたり話したりすれば文字にはなるけど、自分の中だけで考えるときに文字を遣うのはとても非効率。言葉は枠だから、いちいち枠にはめて考えてはいなくて、もっと言語化されないイメージで思考している。どう思考したかと問われたら、言語でしか語れないから言語化しようとするけど、宣伝要素も関わってくるから、ずれが生じる。

 

あの本、書けば書くほど世界が狭まるというフレーズもあった。確かにそうだと思う。人の日記とか見ているとそう思う。僕の日記はどうかというと、見ての通り。

波さんと接して(いやほとんど関係はないけど)楽しかったなと思うところ。

 

ほぼ過去形にしているけど、別に過去も現在も未来もない話。

 

普通に考えれば、とても気持ち悪い発言をいっぱいしているから、それでも嬉しいってなんぞやってずっと想っていたけど、このブラックボックスがあるから楽しかったのだろうなって。もっと普通に考えれば、現実的な文章から見たこの人を踏まえたら、とっくに終わっている。

 

つまり、普通に考えていけない。人は理解したいようにしか理解しないの反対になって困る。忙しいのに読みに来ないでよって。

 

楽しさを提供してくれてありがとうございましたで良いか。

 

おしまい。

 

あわよくばぐっすり寝ていますように。

 

 

 

 

 

はためいわく

 

 

 

二回外に出たけれど、今日は良く寝た。眠いから寝るのではなくて、寝転んでいるから眠くなる感じ。夢は見過ぎて描写できない。夜に出かけたときに見上げた月はちょうど半分。明日からは遅番だから、月を見上げながら帰ることができる。

 

さておき。昨日の日記の一部は恥ずかしくて衝動的に消してしまったけど別に残しておいても良かった。愚かな中身がとてもよく描写されている。あんまり分析することにも意味はないのだけど、まぁ良いか。

 

恋愛感情を前提とした思考の無軌道性とおこがましさと周回性。自己観測だと無為さがよく分かる。考えるの体はなしているけど、事象と結果を繋げる道具が願望だからまったくもって説明になっていない。ついでに根元にある感情も対象も概念ですらないから、どこまで潜ってバラしてもどこにも向かえないし辿りつかない。願望は期待と想像の中間くらいにあるものだから、こうに違いないでもないしこうだろうでもなく、こうあって欲しいだけど、この願望が僕に都合が良い訳でもない。願望は基本的に都合が悪い方に向かう。

 

こういう不毛さが醍醐味だけど、これって別に言語化する必要もあえて見えるところに置く必要もない。必要というか、効果か。この不毛さをごまかすためには、基本的に効果に向かわなきゃいけないのだけど、僕はこの効果という名の現実化は求めていないという。だったら不毛さは自分の中で味わっておけよと思う。

 

バーチャルとリアルの話で、とりあえず、人は物理的な肉体にまつわるものを現実としているのが現在だと思う。たぶん、人格とか精神より価値が置かれている。人格や精神がより剥き出しになるのはSNSの世界だけど、ここにおける他人への信ぴょう性というのは、リアルよりもとても軽い。それは、肉にまつわる不都合性を捨象できていうご都合性にもよるだろうし、このご都合的世界では、まず自分が偽っているという前提もありそう。

 

別に良いとか悪いとかの話ではなく、何を重視するかの話。僕は、肉体の檻の枠で観測する人より、そこから離れたところに在る人格の方がよりその人の本質なのだと見るだけ。別にコメントなんて返さなくて良いし、相手のことを見るかどうかに対してもなんの制約もない。制約があるとすれば、リアルから離れ切れていないということで、それも当人次第だからなんの問題もない。何故不自由性を感じるのかもなんとなく分かるのだけど。これも情報格差の話。でも、リアルの方が自分の情報を発信できていると思える前提はどこにあるのだろうということは気になる。リアルにおいて自分の意志を働かせることができる領域なんてほとんどないような。

 

幽霊の近未来SF小説の中に、100年前の経済学者が「人の言動はすべて宣伝だ」と言ったというフレーズがあった。時代設定が100年後くらいだから、今の最新経済学者にそういう人が居たのかと思うけど、フィクションだから本当のところは分からない。しかし、ここ数日の思考と繋がってなかなか腑に落ちた。

 

宣伝の定義は、たぶん需要を増やすというところに根がある。情報も宣伝らしく、つまり、ちょっと誇大表現になるということ。例えば自己紹介に苦がない人は、自己を宣伝することに違和感を抱かない人。苦がある人は、自分を宣伝する意味をいちいち考える。要は自己観測を何の為にするということになりそう。僕は後者側だけど、別に宣伝することに意味はないとしている。勝手に評価してくれる人は評価するし、あえて自己宣伝を言語化できるのはしたたかだと思うけど、それで相手に対する評価が左右されることはない。

 

この意味での宣伝で他人のことを決める人が居たら、よほど情報リテラシーないか、世界が言動で決まっていると思い込んでいる人だなって思う。もちろん就活とかになってくるとそこしか情報がないから、どれだけ宣伝できるかを見るのは分かるけど。

 

これを自己表現の文脈にすると、自分がどう自分であるかの宣伝か、自分が依っている思想への宣伝で、どちらにせよ、肯定的な需要を増やすためにある。議論でも、結局は自分が正しいことを宣伝したいという文脈なのかも。

 

僕にはこういう感覚は一切ない。需要が増えることはめんどくさいまである。別に吐き出しでもないし、ここに書かなくても僕に何か不都合がある訳ではない。観測されることに意味があるのではなく、観測している人の意味が気になるだけ。まぁ更新されるから読むという機械的な動機も分かる。僕も自分が可視化できる形で更新してくれないと読めないし、商業的な更新だったら課金すれば寄与できるけど、それができない領域では待つしかできない。

 

森博嗣さんの小説が好きなのは、定義がしっかりしているから。概念なのかな。希望は個人の内側にあるものではなく個人の周辺にあるものだとか。全部読むほど好きではないのだけど、すべてがFになる、の系譜の話しか読んでない。

 

現実と仮想の領域があいまいになっているのは、別に精神に異常をきたしている訳ではなく、化学の最新知見を取り入れているから。相対性理論は光速に近い速度で移動しないと実感できないということだけど、なんとなく、もともと感じていた違和が説明されている気がする。相対速度は、精神的速度にも適用できそう。精神は物理的ルールには従ってないから。

 

こうして、リアルが塗り替えられるものでしかないというのは、コロナ禍でも実感されただろうけど、だったら、ほんとうに不変なリアルとはなんぞや。

 

僕の結論としては、案外可視化されない気持ちではないかと思っている。切なさとか嬉しさとか、対象と相関していないもの。対象と相関していないといけないものは交換性がある。条件付きというか。

 

そういえば、昨日の日記で思考の交換とか言っていたけど、これは対話では不可能なこと。会話しながら思考を宣伝するのは、ごくごく限られた領域ならありうるけど、全人格的には無理。

 

だとすれば、もう実現しているような気がしないでもない。これは願望の話ではなく、そう読み取らざるを得ないという意味で。だから嬉しいということもないけど。むしろ大丈夫かなって。

 

あと二十数回好き好き書き続けるのも、なんだかなぁとという感じだけど。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

kaisou

 

 

穏やかな感じで寝たのに、変な夢を見た。旧実家の方で網戸にして昼寝していたのだけど、網戸のすぐ外に大雀蜂の巣があってうじゃうじゃと網に群がっている。網戸の下の方が破けていて侵入されそうになったから、やむなく殺虫剤で撃退したのだけど、なかなかグロテスクだった。無数の蜂の死骸と女王蜂と蜂の子と。そういえば、現実の旧実家の二階の雨戸のところに蜂の巣の残骸があった。あれを残しているのは何か縁起物だったのだろうか。

 

雀と言えば、金曜日に弁当を食べていたら、やたらと懐っこい、ご飯をねだってくるのが1羽。院の時にコンビニおにぎり食べているときに米粒食べにベンチに上ってきた奴との類似性。与えられることに対する需要は一緒か。

 

 

ともあれ。少し飲み過ぎた次の日は、精神と物理的肉体が近くなる。本物の二日酔いになったらそれどころではないのだけど、ちゃんと自分が肉体に基づいているという認識。風邪の時と一緒。風邪は現実にかまけて蔑ろにしたツケのような。毎年風邪引いていたのにここ何年年か引かなくなった。邪気がない。

 

そうして、書けないことをして、水分補給のために外に出た。コンビニの手前の自販機でファンタグレープとポカリを購入。個人的にファンタはグレープよりオレンジが好きなのだけど、自販機であんまり見かけない。メロンに至ってはドリンクバーにしかないし。

 

ポカリの話。スポーツドリンク系は、幼少期とか小学生までは風邪の象徴みたいな、体調が悪いときに飲むまずい飲み物だった。高校になって水分補給の為に飲むものとして美味しくなった。マッチとかライフガードの方が好きだったけど、練習とか試合中はアクエリアスを飲んでいた気がする。そうして大学以降は、二日酔いの後の水分補給になる。ポカリスエットは糖分が多すぎると聞くけど、こういう系の飲み物の中では一番美味しい。グリーンダカラは変な汗が出るし、アクエリアスは薄いし。経口補水液は飲んだことないかも。

 

味覚の変化に対して自分が成長したと認識できる人はとても健全だと思う。確かに忠実に経験則だし。例えば、自分が不味いと思っているものがとても健康に良いと認識して食べたとしても、不味さが更新される訳ではない。不味くても食べなければというルールが形成されるだけ。

 

自分の体を限界まで動かすという意味では、僕は長距離走が結構好きだった。ランナーズハイの感覚は肉体を前提としながら、肉体とは離れている。

 

さておき。

 

何を現実とするかの話。昨日は最後の方適当に書いている。もっとしっかり考えねば。

 

たぶん考えることが疎外になるという観念は、新しいことを何も取り入れない環境にあるからだと思う。素材が更新されないのに既存の素材だけで考えるなら、そりゃあ閉塞的なことになる。これでは考えることはどこにも向かわない。

 

でも、どこへも向かえないからこそ定着できるという観念はとてもあり寄りのあり。反省的思索は自己解明にとってはとても大事。

 

僕は、人が現実としているものはだいたいバーチャルなのではないかと考えている。もちろんそこに実感があれば特に問題はないし、だいたいの人はそういう風に生きている。物理的な世界が現実だろうと反論されたら、物理的な世界をどの水準で見ていますかって再反論したくなる。ニュートンさんのかアインシュタインさんのか、ひも理論なのか。

 

まぁ前提を省略できることはとても合理的である。僕もあえて他人にいちいちそんなこと聞かない。あえて聞いてみた人は何も答えてくれなかったけど、それはそれで合理的だと思う。

 

ところでというか、僕の個人的な現実感だけど、僕は現代の一般的な知識水準にすら届いてないという感覚が拭えない。ただ、この認識が僕の現実に寄与するのかというのは別問題。基本的に、他人の認識に対して齟齬がなければ、どこにでも生きられる。

 

これができないことが、自分を大事にしているかというと全然違う。本当に守るべき自分があるなら、自分がどう見えるかなんてどうでもいいはず。

 

他人からの印象値なんて、コントロールしようとすればいかようにもなる。啓発本っぽい説だけど、素朴に考えて他人の印象を自分がどう決めているかから逆算すれば自然な結論。

 

他人なんて基本どうでもよくしか見ていない。どうでも良くなるのは価値があるとき。だから僕は、価値がないのに捉えてくる人格が気になる。

 

 

この文脈から考えたとき、自意識って、情報格差なのだろうな。自分の情報は一番自分が持っていて、でもそれが現実化できない齟齬に対する葛藤。

 

僕はそういうのはもう終わった。自意識をどれだけ表明したってまるっと捉えられることはない。というか表明できたことがない。

 

だから、ここもバーチャル。

 

でも、バーチャルであることと現実であることに価値の違いなんてないという主観。なんでそこで分けなきゃいけないのか。

 

好きと大事の違い。好きは確かにバーチャルで、大事はリアルに近い。僕は直近の元恋人さんのことは大事だなって思ったけど、当人は好きだって言ってほしいってことで別れてしまった。嘘は言えない。

 

好きに現実的価値なんてないのに。波さんはその辺よく把握しているような感じ。だから好きって言える。買いかぶりかもしれないけど。

 

好きは、継続性を前提とする言葉ではない、刹那な概念。好きだから何をしても良いみたいな無軌道性もある。僕はそこまでのことはないけど、波さんに対する好き概念はとても切なくて良い。

 

全然美化してなくて、僕に対して発してくれた言葉と現実を前提として。だからやめておけと言ったのに。

 

あともう一つ。好きの観念の純粋な領域は交換ではない。だからこそ、ちゃんとまともに生きている人はこんな文章読むべきでない。

 

最後。僕が他人にどう見られるかもバーチャル。これは現実世界で過ごしてきた集積だけど、元気っぽく感情豊かっぽく表明できれば、それが僕の現実になる。全然中身と違うけど。

 

つまり、これくらいの水準でしか人は人を把握していないということ。翻って言えば、自分すらこの水準。

 

波さんとは思考を交換できるかなって思ったけど、まぁ全然必要ではないから返信がないのも分かる。とても好きだ。

 

おしまい。

 

 

生身

 

 

週末こんばんは。なんだかふわふわしている。特に何も起こっていないけど変な充足感。

 

 

さて。夢は諸々あって、最終的に靴汚ねぇなぁって言われた。確かに汚れているので洗わないとな。あと新規で追加もしたい。夏っぽいもので。服も涼しくてゆったりしたのが欲しい。

 

最近の夢を見て思うこと。夢は記憶を整理している過程での澱みたいなことを聞いたことがあるけど、ソートしているようには見えないなぁって。むしろすべての感覚で収集された情景が等価な気がする。直に体感してきたことも、テレビの映像も、小説を読みながら創った風景も。夢に色があるかというのも現実の色感によるらしいと聞いたことがある。最近どこか高いところから落ちる夢はご無沙汰。この落下感は、USJの大阪ラバーとともにある。ジュラシックパークでも良いけど、僕は絶叫系とか、落ちる系はどうも苦手だった。今は、もっと試してみたらたのしそうとは思うけど、落下感がしばらく刻みつけられそうだ。どうせならヘリコプターから落下するのが良い。

 

走馬灯は自分の生命の危機に直面した時に、自分の時系列から死を回避する方策を脳が探しているという一説があるらしいけど、ちょっと夢も似ているような。本当に充足している時には夢を見ないってどこかで読んだ。だとすれば、僕はもっと夢は見ておきたい。

 

 

さておき。

 

読み返し枠は、書庫ガチャを回して1発目は色彩をもたない多崎君で、お、と思ったけど、今は村上春樹さんとは違うかなと思って、もう一回転したら、雨月物語が出てきた。なんとなく時節に合っていると思ってこれにした。まだ読み切っていない本だから、読み返しにはならないのだけど。しかし、上田秋成の言い回しのセンス好き。タイトルの由来になっているフレーズ、「雨は晴れて、月は朦朧の夜」、晴れるは旧字で変換できなかったけど、リズムといい情景といいとても良い。月が朦朧ってなんぞやって。そうして例に漏れず、訳者の上田さん愛も読んでいて楽しい。研究ってそういうことなのだろうな。日本の古典も開拓していかねば。タイトルで言うと、蜻蛉日記に惹かれている。蜻蛉っていう字面が好み。古文って今読むととてもリズム感がある。

 

少し遡って、今日になる前。昨日の日記を書き終わって、寝る間際に巡回したら日記がまた4日分更新されていた。朦朧とした意識で急いで読んで、ルーティンで胸の前で手を組んで出てきた言葉は、元気で良かった。全然お祈りじゃないじゃんって自分にツッコミをいれて、何かちゃんと祈って寝た。

 

で、起きて、出勤中考えていたことは、「幽霊を創出したのは誰か」に出てきた、ファッションとか文化とかなんとかもバーチャルだったのだなというフレーズから、むしろバーチャルでないものってなんだろうかということ。仮想って、要は交換可能性と等しい。服は買い替えれば世界から見える像は手っ取り早く変えられる。この小説の時代は肉体も交換可能で、ずっと前のポルノグラフィティーのラララ僕がーで始まる曲みたい。空想なんとかだったような。

 

確かに、今のところ自分の肉体に交換可能性はない。だから、ここにリアルを感じることも分かる。まさに歴史の結晶みたいな部分はあるし。だから、自分のこの結晶化した肉体に付随する精神性をリアルとする気分も分かる。ただ、本当にここをリアルとしていいのかというのは個人的には疑問がある。だって、この肉体に意志は作用していないでしょう。たぶん人が意志というとき、自分の外のことを言っている。

 

仕事はとても滞りなく。こんなにしんどくなくて良いのかなって。たまたまちょっとした面談もあったのだけど、上司とスムーズにコミュニケーションしている自分が居た。この円滑性に至るためには、ということがちょっとわかって来た。

 

 

その前に。本日実家から荷物が届いて、LINEでありがとうって送って頭を稼働していたら、着信が入ってうぇって思ってかけ直した。また愚痴を聞かされるのかと思ったら、おばあちゃんにお礼の電話をしなさいっていうメッセージだけで終わった。で,

かけようとしたら、外部記憶装置であるスマホに登録されていない。内部記憶装置でなんとかなったのだけど、よく発掘できたものだ。もう1人のおばあちゃんの固定電話(もう通じないけど)も再現できたから別にえこひいきではない。

 

おばあちゃんとの会話はとても楽しかった。変な感覚だけど、自分の声を聴くだけで嬉しくなってくれるというのはとてもありがたいことだなと。なんの裏表もない言葉だったから、通話中に僕が発したありがとうは5、6回あったと思う。嬉しいって言われたことではなくて、嬉しそうという声色を見ている。

 

謝るとか感謝の言葉を発することに凄く抵抗を感じていたのだけど、この抵抗値って素朴な僕がそうしていたことではないのだろうなと思った。自分の地位を保つためにこれを遣うのが嫌だっただけ。

 

どうでも良い、いや良くないけど、昨日更新された波さんの日記の中で、同居人さんと接することで嬉しいとか、つらつら思考を発する図を想像して、やっぱすげぇかわえぇなって思ってしまう。しかし、これは何目線なのかとなると分からない。

 

僕で嬉しくなっていることがまだ観測されれば投げ続けられたかなという説もあったけど、何も信号がなかったら分からない。僕の独り言は勝手に投げられているだけと観測されたという解釈で良いのだろうな。嬉しさを供給できないのであれば価値はない。

 

もちろんそれで問題は全然ない。僕は嬉しいと言われただけでとても満たされたので。波さんが夢に出てこないのはこういう意味なのだろうな。夢の中でいちゃいちゃすらできない。ともあれ、別にこの感覚に付き合ってくれなくてもいいのに。

 

 

やれやれ。

 

僕の思考は自分にとって実利がある。考えたことは情報としては忘れたとしても跡があるから、そこをとっかかりにして芋ずる式に再現できる。考えたことを再現できないって、考えたんじゃなくて、精神世界をスケッチしただけではとか。僕もスケッチしたものは全然思い出せない。これって、内界を描写しただけだから、狭義の考えるとは違う。

 

でもなくて、自意識のバーチャル感。僕の日記を読んでいる人は僕が凄く自意識が強固だと読めるかもしれないけど、自意識も仮想のものでしかないような気がしている。

 

というのも、人は基本的に実利しか追求していなくて、その実利に含まれる他人しか認識していない。だとすれば、他人なんてその利の範疇でしか認識できないはず。

 

だったら、他人に観測される自分がその範疇に居る必要もない。

 

自分が他人にどう見えるかを踏まえて現実化する時点で自分ではないということに気づいた。僕がどうするかと他人がそれをどう評価するかは全然関係ない。

 

嬉しいと言われるのは嬉しかった。

 

まぁ、不自由だと思っていることが解放されたときに本当に自在になるのかは想像した方が良い。

 

波さんとはやっぱり余計に会いたくなってしまうな。僕の顔の表情の動きを見ているのを観測したい。これは肉体的好意とは別の好意。文章への好意とも違うからややこしい。

 

この空間を妄想したら、僕はずっと笑っているから表情の動きなんてなかろうな。

 

結局は、なんでこの一回しかない人生でみんな窮屈に過ごさなきゃいけないように見えるのだろうという不思議。

 

僕も一応三次元生活で生きているのだけど、だいたいバーチャルに見えるのは本当の自分までたどりつけてない人が多いからなのだろうな。

 

おしまい。

 

今日は変に好意を発していないはず。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はざま

 

 

今日の夢は、船に乗っているシーンと夏祭りのシーンが印象的だった。どちらもここ何年も体感がない。あと、もっと自分を出せと言われていた。僕の時系列別々の人からこういうことばかり言われてきたけど、とうとう居なくなった。この文脈でいう自分を出すというのは、自分の感情とか衝動を相手に要求することとか、自分を統合的に把握した上でその基準に従うとかそういうことだろうけど、僕には全然馴染まなかった。

 

そういう現実化に全然価値を感じない。自分が嬉しいように人が動くことを意図して稼働することを自在の範疇に含めるのは違うよなって。やろうとすればある程度はできそうなところもなかなか嫌だ。この価値の置き方でなかなか時間を消費することもあったけど、おおむね自分が遣いたいように制限時間を遣えるようにはなっている。

 

頭でっかちという評価もいっぱい受けてきたけど、思考が行動を阻害しているように見えていただけかも。今だと考えることと行動することは全然繋がっていないし、思考が行動を決めることはない。正確には、行動の後に行動の意味を考えるくらいしかしてないから、過去の自分を思考することで次に同じヘマをしないように思考錯誤するという意味合い。

 

頭でっかちに見えたのは、行動しなかったことに対しての思考を言語化したら、行動しなかった理由を語るだけだから、外から見れば、考え込むから行動できないのだということになる。ほんとは素朴にそんなことしたくなかっただけだろうというのが今の観測。

 

 

空腹だから、「おやすみなさい」を読み返している。美味しさ比率高い。規範的真面目論とか、目的論とか、クオリティオブライフ論とか、日記を被った論文ちっくな記事が多い。僕はより真面目になることで自由を感じているから微妙に違うのだけど。考えるから何かができないのではなくて、過去の思考が今の自分を阻害するという意味なら分かる。

 

そういえば、判断力批判に、合目的性という概念が出てきたのだけど、さっぱり分からなかった。今本を開いてそのフレーズを引用することだけはできるけど、咀嚼中の消化していない情報なんてここに書く意味はない。とりあえず、美的判断が本当にアプリオリなのかは、純粋理性と同じくらいに疑っている。なんの経験も踏まえない圧倒的感動みたいなことなのかな、まだ分からない。

 

ところで、「エレガントな宇宙」で宇宙は三次元と認識されているけど、ひも理論では空間が折り重なっていてもっと高次元だっていう話があった。まだその中身まで進んでいないからなんとも言えないけど、そもそも次元ってなんだろうって。僕の拙い知識だと、次元の定義は変数だったという理解がある。点が一次元で、直線は点が二つで二次元。そこに高さがついて三次元。だとしたら、現実世界って変数が3個しかないのかという疑問。たしかに空間認識で言えば平面と奥行きでいいのかもしれないけど、現実の認識がそこにおさまっているようには感じられない。そんなかくかくしたものではないし、時間によって空間がかわるとか、光とか電磁波とか、変な話、精神状態とか。現実にある変数は3どころではないような。

 

別に三次元世界観を持っていること自体に文句はない。僕自体が統合的ではないから、他人がどういう風に世界を捉えているかにどうこう言う資格はないし。ただ、その絶対的っぽいものは、最新科学では定説ではなくて、現代に浸透している一般論でしかないのは確か。世界の認識は常に過渡期だし。宇宙が高次元だとしたら、なんで地球だけ三次元なのかという疑問は当然起こる。

 

昨日の、素朴な自分の自在化のところから考えたこと。人って、思い通りに自分を現実化できない。だとすれば、こちら側から観測できる他人の現実って、仮初でしかないのだろうと。言葉でも発話でも行動でもその人の本質からはかなり乖離しているという仮説。ただ生きているだけではどれも満足いくようにはならない。のは僕が不器用なだけか。腰痛にならない呼吸法とか練習している。

 

結局は仮初だろうがなんだろうが自分にとって快であれば良いのだろうから特に気にならないことだとは思う。自分がどうであるかより、相手が自分にとってどうであるかの方に遥かに価値があるはず。この視点だと、自分を変化させることで世界が変わるという観念は起こらない。だって、絶対的な一次元だし。変数がない。

 

この流れで書くと否定的になりそうだけど、生きてきて一番嬉しかった言葉であるのは確か。

 

という前置きで、波さんの言う存在を受け入れる、の「存在」の中身について、今日起きたときに腑に落ちた解釈。①自分を肯定的に評価してくれることと、②自分の生活・現実に影響がないこと。この二つの条件を満たす存在で在る限り、肯定しますという意味なのだろうなと。これでだいたい整合的に今までの現象が説明できる。もちろん、僕が自分の中で筋が通るというだけだから、本当に波さんがどう評価しているかとは無関係の話。いつか飲むという自分の時間を使うという言はここから外れているし。

 

これが起き抜けの発想で、今となってはちょっと更新されている。経済学繋がりなのだけど、供給しないと需要されないという観念みたいな対価関係なく肯定してくれる存在ということなのかなとか。この観念は結構強そう。何も返ってこないのに、自分を存在として観測する人はきっとイレギュラー。

 

本当は違いますって言語で言われても、あんまり信じない気がする。これは現実化の自在の話。自分のこと書かれるのは不快ですって言われたらすみやかにやめるけど。どちらにせよあと少しなので。

 

なんで、直に接する人の方が本質で接していると思うのかって、きっと自己保存の生物学的な話で、生物学的な範疇だと人は本音で本質で生きていると認識される。確かに、社会的な縛りがあるところでは犯罪ちっくなことは起こらないし、安全圏ではある。善い。

 

存在の話に戻るけど、僕が波さんの全存在を肯定しているのかというと微妙なところで。例えば、仮定的に恋人になったとして、自分の為に僕の本を読む時間を減らせって言われたら、きっと何か違うと思ってしまうことからすると、同じくらいの意味でしか存在を肯定していないと言える。

 

となると、物理的な造形に対する好意はまた別なのかとややこしや。おやすみなさいのワンポイントの白Tシャツを着ている写メの鎖骨がとても美だった。

 

人が人を大事に想う概念の現実化って、現実的に費やせることなのか、頭の中の占有率なのか、どっちだろう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

原動力

 

 

 

昼休みに社会美学の代わりを探しにリブロに寄ったけど(というか毎日寄っている)、新刊ではないらしい。しばらくよく分からない枠は1冊抜けた状態か。と思っていたら、そんなことはなく。帰宅ルートがちょっとしたことで変わって、あぁそういえばこの道だったら古書店に寄って帰ることができるなと気付いた。軒先にある50円棚にデカルトさんの方法序説とルソーさんのエミールあってすごく惹かれたけど、いかんせん今文庫本枠は満杯なのでやむなく断念した。

 

認識に依って世界が拡がるという観念を素朴に感じるのは、本屋に行ったとき。膨大なタイトルが並んでいるけど、読める本か読みたい本しか目に入らない。他の圧倒的な数の本達は開拓していないか、一生出逢うことがことないもの。この死角って人生とも並行的なのでは。

 

そうして、見つかった本は、「エレガントな宇宙」 社会美学が感性でしか捉えられないものだとしたら、宇宙論は概念でしか捉えられないものだから、なかなかバランスが良い。人は宇宙が在ることは知識として知っているけど、体感したことがある人はほとんど居ない。にもかかわらず存在が当たり前になっているのは何故かというと、たぶん、在ってもなくても実生活に特に影響がないからだと思う。天動説から地動説に変わったことで影響を受けたのが宗教関係者だけ、とは言わないけど少なかったことと同じ。宇宙が在るかないかより、今日の晩御飯の方がきっと価値がある。

 

相対性理論がとても大きなもの、光とか宇宙を対象としていて、量子力学がとても小さな物質を対象としているから、統合的に把握できなかったらしい。それを説明できるようにした超ひも理論のことが語られるという前書きを読んで、まだ少し早かったかなと身構えたけど、続けて読んでいると物理とか化学の素養がない人向けに書いたって言っていてひと安心。

 

なかなか面白く読めそう。

 

実生活の話。

 

今日仕事し始めときに、あんまり声が聞こえないんですけどって言われて、調子悪いんだなって自覚して、昼休憩のときに考えたのだけど、自信がないことって体調と同じくらい自分の肉体を左右する現象なのだなと。僕は基本的に対人での自分の表現に不信感があって、声が通らないことも自覚があるから、そう言われたらやっぱりそうかという悪循環になる。声に感情を載せるとか付け焼刃だし、聞こえないって言われたらごめんなさいってなってしまい、余計もごもごする。

 

ただ、ここの調整も分かってきたから、昼前には挽回できたはず。

 

言語も発話も行動も、具体的な対人関係だと、自己表現には違いないけどもっと適切な意味当ては、相手に自分の存在を示すということだと思う。僕はここが欠けていたなと自覚している次第。なるべく存在していないような存在で居たかったし、自分が観測する自分の存在観もやたらと薄い。

 

僕にとって大人になるというのは、ここかもしれない。存在しているのはしょうがないから、中身はともあれ存在観は示すということ。言語も発話も体の動きも、存在の前に居る自分を世界に自在に出すための道具ぐらいなものでしかない。波さんを都合よくリハビリ的に使っているのかもとか。存在の概念についてちゃんと考えたのはこの人の言葉のおかげ。存在の定義を一向に教えてくれないのが何故かは好意を抜きにしても気になっている。観測値の話かいな。

 

忙しそうだから仕方がないけど空腹です。

 

言語。よくもまぁここまで綴れるようになったものだ。それほど語彙が増えている訳ではないけど、これは訓練と、存在を示しても観測してくれる人が居るという学習が強い。ウェブライターの文章がうまくいかなかったのは、そういう風には窮屈だから書けないというだけ。いや、基本的な文章作法が分かっていないという説もあるけど、仕事でも楽しく書けたこともあったから一概には言えない。

 

発話。本当は特に苦ではないような気がする。でも、発話での言葉って、存在としてはとても曖昧。いや、だからこそ、誰が発するかが大事であって存在としては一番重い? 分からない。仕事で話すということにおいてはまぁまぁ自在になりつつある。

 

行動。漫画アプリで読んでいるサッカー漫画が科学的、いや力学的になるのか、人の動きを解説してくれて面白い。歩き方とか、体を壊しやすい走り方とか。別にスポーツなんてもうしないけど、こういう物理的なメカニズムさえ把握できていないという拙さ。

 

であるならば、意志を行動に過不足なく載せることってめちゃくちゃ高度なものではなかろうかという応用。思った通りに体が動かせないことを実生活にすることも良いけど、だったら調整が必要。これは自戒でしかない。もっと自在に動かせるのではと。

 

もう少し時間があるから、何にしようかな。

 

実生活という概念って拘束ありきなのかとか、幻想とは世界への同化だったとか、なんで他人と直に接しないと他人を感得できないのかとか。

 

実生活で良いか。いや、もうだいたい書いている気がする。

 

僕は実生活=現実みたいなことに価値を置いていない。置いてなくてもルーティンに齟齬がないのだから、なかなか良い肉体をあてがわれていると思う。欲求も切なさもだいたい自己処理で良いし。

 

人にとって、どうしても外せないポイントがどこにあるのかが気になるところ。

 

そういえば、昼休憩の時に、自分の手についていたバッグの紐跡を見たときに、自分のフェチってそうとう質悪そうだと思った。

 

まぁ、こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

感性

 

 

 

なかなか壮大な夢を見た。あまりにあんまりだから全然言語化はできないのだけど、行ったことがないところや見たことがないものや感じたことがないものをたくさん体感した。夢も1つの体感。過去も体感。未来だったって体感として想像することはできる。物語だって体感として良い。では、どの体感が最も価値があるのか。個人的には任意だと思うけどどうだろう。

 

そういえば、過去観の話。起き抜けに思い付いたのは「いま」の特権について。過去のそのときの自分より当時の接した人のことが認識できる。僕が家族以外で一番長く過ごした人にどうして惹かれていたのか。とても意志的に世界を認識していたから。特に本とかも読んだことはなく、先天的に。とても夜型というか、不眠症で、一日がいつ始まるかが決められないから便宜的に日が昇った時を一日の始まりにしていると言っていた。

 

ただ、その意志的世界認識が強すぎて、学校生活とかの社会生活ができなかった模様。過去はあんまり知らないのだけど、バランスが不安定だった。当時の僕は一般論で曇っていたからうまくはいかなかったのだけど、発話の言い回しの良さが今となってよく分かる。二回目に逢ったときは随分違う人になっていたけど、そうではないのかもしれない。この経過を通さないと今の自分はないということ考えても、悪いことしたなって感想。

 

ともあれ、こういう全く何のためにならないことを考えるとき、今の特権だなと思う。別にこれは過去を美化しているとも違うから、美化された過去として自分が誰かに残りたい人にとってはちょっと違うのかもしれない。ちゃんと関わった人に対して、あの人良い人だったみたいなラベルは貼れないし。

 

僕にとって過去は無為に過ぎ去ったものではないから、そもそも褪せるとかモノクロになるようなものではない。だから同じ時と過ごした人と過去を語り合うことが馴染まなかったのか。踏まえて今どうなんだということでは。

 

ただ体感を共有するだけの関係の価値があまり分からなくなってきている。影響を受けてなんぼじゃないかって。自身に気に食わないところあるなら余計に。

 

過去を美化するという観念も一種の幻想ちっくではある。共同幻想論が言う幻想論はよく分からないけど、おそらく、自分と世界の乖離が要素にある。子供は世界に対する認識が薄いから、イマジナリーフレンドを創出するとか。共同幻想論は予兆の話になっていて、なかなかおどろおどしい。今のところ柳田邦男さんの思想の解説文なのだけど、もっと面白くなるはず。

 

 

で、過去の美化を考えると、これも自分を時系列で乖離させるという意味では幻想だろうなぁて。なんで美化するのかって、言うまでもなく、今の自分より良い時系列があったという観念。どの時系列の自分にも「いま」しかないから、今をどうにかすることにエネルギーを使った方が良い。他人事論。

 

この美化って、美学的にどうなのだろう。どうやら美学の起原はカントさんではなく、アリストテレスさんらしい。感性的に捉えた世界を省察することとか。原文あるのかな。ぜひ読みたい。

 

そうして、社会美学の本も読み終えた。たぶん読み返さないけど、好きなフレーズもある。観念的に捉える世界と感性的に捉える世界では、後者の方が狭い。確かにそう。ただ、この本に書かれている社会美は、どうも観念で捉えた快を感性的に後付けで捉えるって感じだからしっくりこない。

 

ここでいう快って、生活を積み重ねたものに感じる快って感じ。確かに良いなって思う。人の営みの息遣いとか、ちょっとした善意とか。ただ、これってほんとうに感性で味わっているものなのかという疑問。カントさんは美的判断を自分が美だと感じたことは全人類に要求することができる主観的妥当性があることだと言っているけど、これだと逆になる。善いとされていることに感性が気付けるようにするだけでは。

 

そういう試みっていう学問なら分からんでもない。

 

快がなんであるかの追及だけなら、昨日のスーパーの店員の女の子に接した自分と変わらない。そういうえば、今日の女の子は同じく早かったしかわいらしそうだったけど、どうも合わなかった。昨日の女の子なら急いでいても手が触れるようなヘマはしないだろうとか。

 

幽霊の話はどんどん面白くなっていて、実際に接したとしてもその人が幽霊かどうかなんて分からないよねっていう哲学の話になっている。人間は何をもって人間と定義しているのかという命題については、ずっと考えているのだけどよく分からない。

 

物理的生物学的な人間を人間とするのが一番わかりやすいけど、これでも、では、胎児は、受精卵は、精子卵子ではとななってくると、どこかで選択しないといけない。

 

そうして、自分が直に触れる人としか人としないという定義も強固で確固としているけど、それでは世界を生きられない。

 

じゃあなんだって言ったら、影響値と観測圏内で選んでいくしかない。ニュースでいくら人が死んだって、自分の観測圏内の人が死ぬことと比べたらたいしたことはない。大したことがある人は毎日ふさぎ込んでないといけなくなりそうだし。

 

あぁ、これが観念の世界観なのか。とても不透明な世界だ。

 

要は、相手が幽霊かどうかなんてあんまり問題ではないということ。

いや、僕がか。

 

波さんの語彙が好きだから、きっとてきとーなことは言わないと捉えている観念と、日記の文脈でどうでも良い人にはてきとーにはぐらかすという観念のどちらなのだろうなとは思う。存在としてはどちらも幽霊みたいなものだから、どっちでもええかなという感じ。

 

幽霊って、意志が肉体から乖離したものらしいし。

 

 

はい、おしまい。

 

 

おやすみなさい。