嘘は言わない

人は何を食べて生きるのか。

 

お茶漬けを自分で作るとかつての職場で言ったら、結構引かれた。ワサビと海苔と顆粒出汁と梅干があればできると言って見たけど、その人たちはそもそもそんな発想が出ることがおかしいとのこと。クックパッド先生に聞いたらいっぱい出てくるけど、世界が違う1例。まぁたこわさを自分で作ったのはやや行き過ぎだと思うけど。白だしとわさびでなんとかなる。茎わさびがあればもっと良かったけど、美味しかった。

 

ということで、朝はお茶漬け。弁当用に梅干しは常備しているから、梅茶漬け。ミネラルウォーターだから料理名は変えなきゃならないかもしれないけど。作る人は作るというだけ。

 

そういえば、元恋人さんが、僕が「人はなぜ腰痛を選ぶのか」を買ったことに対して、腰が痛くなったのかと聞いてきたのもそうか。自分に利益になる情報しか人は仕入れないというものさし。まぁ全然間違ってないというかだいたい正しい。人が何を取集しているかというのはその人の背景を示していて、特に本の取集は受動的には成立しないものだから、かなり根っこに近いというは真理だと思う。ただ、僕の食欲が自分に直結する物ばかりを食べていると認識されているのが、やや悲しいでもないな。あまり見られてなかったのかなと。

 

別に全く問題ない話。これは僕の問題には繋がっていて。

 

文章に関する認識が僕の世界外だと、途端に鈍る。人は自分の世界の外に関しては無視するとか畏れるとかして、自分の枠に収めようとする。畏れはいいけど見ないようにするのはいけない。

 

僕の文章を読んでいるからと言って僕のことを好きとは限らない。逆は真だけど。論理考えるのめんどくさ。

 

そういう世界の外の為に思考がある。

これって、もともとの僕が、思考しないとどうしようもないくらいポンコツであるっていうのに等しい。別に自己否定はしないし、だからこそここに至ったという変な相関がある。もう少しポンコツでなければ、世界と自分の成り立ちにきっと疑問を抱かなかったという紙一重世界線がある。

 

なんだっけ。

 

腰痛の話だけど、無意識の権威のフロイトさんが出てきて、お、となった。無意識下で抑圧された衝動、特に怒りが慢性的な痛みを生み出しているという説。というか、実際にそういう方向で治療したら治ったっていう症例をたくさんお医者さんに持ってこられたらもう納得するしかないのではと思うけど、医学も含めた科学って、再現性を問題としているから受け入れられないのも分かる。

 

この本がジュンク堂で瞑想・ヨーガの棚に置いてあったということがそういうこと。こういうのはもっと国家レベルの陰謀が関わってそうだけど、それはさておく。

 

自分を構成している者が意識と無意識とどっちか聞かれたら、圧倒的に無意識だろうと思うのだけど、一般論としてはどうなのだろう。

 

無意識に収納されている人生値は、意識できる経験値より圧倒的に多い。のんべぇには頭が痛い話かもしれないけど、記憶が飛んだ間の出来事もきっと無意識には収納されている。

 

無意識に内臓されてしまったもので一番強いものは怒りらしい。自分の寂しさを満足してくれなかった痛みとか幼少期の不遇とか性被害とかが、蓋をされて、ぐつぐつ煮えている。僕は実体験としてそういう人に接する機会がいくつかあった。一番は家族だけど、他も諸々。僕も怒りに呼応する無意識はある。けど、無意識開拓家としては、もっと深いところがある。

 

怒りって、要は対象の人から受けた理不尽を返せなかったことに対する負の感情なのだろうけど、対象があるだけ良いような。もっと奥には自分が自分であることへの疑義が無意識にはある。

 

ただ、これって単に僕が恵まれていたという節もある。僕は歴史を掘り起こしても無意識を掘り返して特定の誰かとか世界に対する怒りっていう感情が全然掬えない。怒りという感情を表明することを反面教師にしたからか、怒りはあくまで対人であることだって思っているからどうかは知らないけど、怒りとか理不尽に対する抑圧は感じない。こんなの当たり前じゃんって。

 

僕の反発はどうやら悪意に対するものではない。悪意は天災みたいなものだから、それに対して感情を抱くことが無駄。そうじゃなくて、善意っぽい搾取の方がよほど質悪いという観念が醸成されている。

 

だから、人の言動の意味とか背景をやたらと気にしているというのはある。

まぁ、突発的な言動こそがその人の無意識の発現であって、人の無意識が気になるのはより相手に関心があるとも言えなくもない。

 

僕は自分のこともこのレベルで観察しているから、あぁそういう風にこの人に好かれようとするのかぁって冷めた目でみることもある。

 

つまり、無意識とセットにしたら、人は自分の本音なんて語れるはずがないという見方。

 

 

そうすると、自己矛盾だらけになるのだけど、そこに整合性がある説明なんてできないのは確か。ただ、神秘学的な視点で追求すると、自分の根っこが分かるみたいな触れ込み。

 

でも、この修行って、なんというか内的世界を活性化するには良いと思った。何かに目覚めるっていうより、色彩が豊かになるとか、物事を具体的に頭の中で再現できるっている意味で。自分の世界の鮮明度って言語でも画像でも表現できないから、解像度を高めようとするのは修行でも良いのかなって。

 

解像度を高めるには、意識下でいろんなバリエーションを収集して、思考で整理すること。

 

 

そうやって、調整できる自分と調整できない自分を選別していくと、僕の根っこはかなりやばいのが分かった。端的に言えば、植物とあんまり変わらない。この話書くと恥ずかしいからやめとこう。

 

あと何かあるかしら。

 

あぁ、僕は漫画で成長とか成功とかウキウキしながら読むのだけど、これって憧れではなくて、完全に他人事して読んでいるからだろうなと。自分にはできないじゃなくて、自分にはこういう成功体験を体感できないないだろうなという他人事感。成功体験が全くなければ単なる空想だけど、一応いくつかあってもそうだった。

 

まぁ、これも世界が変わったら分からないけど。

 

こうやって、自分を細分化していくと、どれが本当の自分の本音なのかが分からなくなるデメリットはある。無意識でも意識でもどっちでも良いけど、ものさしとか捉え方は自分の中でさえ色彩豊か。

 

という中で何を信用するかって、結果から逆算するしかない。普通のことか。

 

僕は自分の外的価値をちっとも認めていないけど、なんだかんだ自分の直感は信用している。結果的に傷つけられたり騙されたりしてもそれが必要なことだったのだって思うくらいには。

 

連休がもう終わるなぁ。

 

おしまい。