悪食

 

うじゃうじゃと思考を垂れ流す。

 

 

日常平均何文字くらい読んでいるのだろうとふと思い経って、概算してみた。

だいたい最低1万文字以上は食べているだろうなと。20冊くらいの紙媒体を並行して読んで、電子媒体ではつぶやきとか日記とかを食べているから、もしかしたら、2万はくだらないのか。自分の前日の日記もざっくり読み返して1000~2000くらいはあるし。

 

ここで考えるのは、僕がどれだけ読んでいるのか、ではなくて、これだけ読んでいてもこの程度の言葉数しか綴れないという燃費の悪さ。吸収と発信のアンバランと言っても良い。自己表現に重きを置いていないし、読んだ文字数分をそのまま吐き出せるなんてこともないから、厳密には燃費の話でもない。言語化できないストックもあるし、ここでは文字化できないっていう縛りもきっとある。

 

これはきっと性質の問題。

文字を収集してなくてもいっぱい綴れる人も居るし、文字を取集することで綴れる人も居るし。

 

法律学の話とか、数学の話とか絶対つまらない。でもこの2つ対極なようだけど、恣意性という意味の共通項があるような。という綴れないストックがいっぱいある。

 

あとは選別の問題か。

 

ともあれ。

 

小説枠。昨日ご飯を収集できたら良かったのだけど、ないものはないでしょうがないから、既存のストックから調達。

 

萩原朔太郎さんの猫町

これはなかなか思い出深い本。読んでいると平衡感覚がなくなるというかいつか現実になったことがある非現実が想起されるというか。若干宮沢賢治感もあるし、没頭すると恐ろしげ体感が得られる。まったく自分とは関係ないのに、どこかで感じたことがある何かが立ちのぼってくる。

 

 

短編集だからもう1個読んだ。

ある人が仕事を終えて帰ってくると部屋に黒猫が座っていて、それが毎日毎日続く。主人公は賢い人だったから、どうやって入ってきたのかを観測するためにチョークの粉を撒いてみるのだけど、足跡はつかず。友人を呼んでみても友人は気付かない。そうして最終的にピストルで撃ち殺そうとして、自分が死んでしまう。

 

こんなことないって一蹴するのも当然の読み方だけど、なんとなくこびりついた心象っていう風に比喩として捉えると、ありふれたものなような気もする。例えば後悔とかどうだろう?

 

猫は可愛いけど、もっと穿つと、自分を見透かす鏡みたいに見えない?

見えないか。僕が現実をミラーハウス的に見てるだけ。

 

さておき。

 

昨日の日記は反省文で脱力感が原動力だったのだから、何をいいねしているのだって思いながら読み返したのだけど、なるほど、我ながらなかなか面白かった。

 

自分の文章力とかではない。

 

読む目と書く頭と手が圧倒的に不均衡だから、過去の自分が書いた文章はもはや読み物でしかないというだけ。前日ですら過去。

 

そうして、今日は虚脱間の影響で結構ポンコツだったのだけど、このポンコツ具合も、自分の印象値でしかない。と、誰かさんに投げた言葉の反作用。

 

あと思ったのが、僕は人の暗がりの部分に関心があるのだろうなと。日向はまぶしいし自分もそこに居られたとは思わなくもないけど、人の本質は、日向では見えてこない。ような。

 

まぁ日向がないと影はできない訳で、僕が今するのは、もっともっと脳内整理をして、日向に出てみることかと思う。自分が日向に出たから日陰を忘れることなんてなかろうし。

 

しんどいから糧になるっていうストイック性も良いけれど、面白く食べる方が省エネになる。没頭してしまえばしんどいかどうかは問題にならない。

 

という境地で生きたいなぁ。もっと自分に負荷をかけなきゃ。

 

んで、この瞬間を楽しむためには、適度な唯我独尊でいい。

これがたまたま一致することが縁。

 

おしまいでおやすみなさい。

 

 

良い夢を!