意思決定
帰り道に猫町のような小路があって、そちらに進みたい衝動が毎度芽生える。住宅街で路地がたくさんあって、ほぼあらゆる道を歩いているとは思うのだけど。朔太郎さんの方法論では、平衡感覚を司る三半規管をひっくり返して日常に居ながら異世界に赴くらしいから、あるいは。なんか梶井さんも檸檬でそんなのやっていたような。ただ、これを笑い飛ばすのはまだ早い。
ところで、昨日の元気そうを見て、触発されたのがご飯。昨日はマーボー豆腐を作った、結果は散々だったけど、食べたいと思ったものを作れることと作ろうとしたことが素晴らしい。まぁ原因は明らかだけど。味付けは良いのに、水溶き片栗粉の扱いが拙いしテキトー。これは、片栗粉のとろみに魅力を感じていないことに等しい。煮凝り系のとろみとか、納豆のねばみとかは好きだけど、片栗粉はなんだか人工的な感じ。レトルトカレーのとろみのために大量に使われている小麦粉みたいな。炭水化物はだいたい人工的。そのうち玄米食になるかもしれない。
あぁ、あと、レタスの高騰が地味に凄い。レタス常備しとくと草成分補給に楽だけど、1玉258円はもはや詰まり詰まったキャベツレベルだから割に合わない先月は100円くらいだったのにどんどん上がっている。外で育てるものは気候に左右されるから、色々あるのだろう。そんなときのさぷりーふ。ベビーリーフミックスのようなもので、なかなか草感があって美味しい。
食といえば、脳に良い成分で、DHAとか糖分とか、覚醒にはカフェインが良いとか言われている。けど、一番良いのは、水だろうなと思っている。炭酸も入ってないただのミネラルウォーター。
ともあれ。
なかなか変な夢を見た。
おそらく、地元の話をしていたからだろうけど、登場人物が親戚界隈だった。そうして超巨大な犬が出てきた。これはかつて飼っていた犬のデフォルメ。あと、デフォルメされた妹のキスで起こされていた。一応言っておくけど、僕にはそういう趣味はない。年下と年上のどちらが好みかというと、どちらかと言えば前者だけど、精神性の話で、妹がそういうものを持っていたわけでもないし、全然愛着もない。
だったら。
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」という本を読んでいるのだけど、夢についての話で、修行が進むと夢の中でも生きられるようになるとのことだった。もちろん現実が前提だけど。
それで考えると、これだけ出てくるっていう示唆は、自分が思春期までを過ごした時空に囚われているってことで、そこに帰れではなくて、そこからさっさと離脱しろっていうことに見える。ここに居た僕は全然自分ではなかった。家族とか親戚とか地域みたいな、誰もが自分で決めた訳じゃない関係に対して、疑問がある。
その中でたまたま相性が良かった人は関係を継続すれば良いけど、そうじゃないのに続けるのは外圧だよなと。僕が姉と妹が母から離れたことにもやもやしているのは、外圧を再生産しているだけではという部分。
そうして、仏教の本ので「空」とは、こころにとどめつつも、とらわれないという観念らしい。
関係時間が長いからひいきするのは、今の僕の観念からすれば齟齬がある。これは血が繋がっていようが、全然関係ない。これは母親から着信があると気分の重力が3Gくらいになるとか、母親に話したことは親戚に伝わるとかと思うと個人的な見解はできないとかで明らか。血がつながっていない関係でも、グループの中のこの人みたいな捉え方だと、どうしようもなく相手も自分も薄れるような気がする。
まぁ良いや。
昨日の感情が自分に及ぼす揺らぎの話とも繋がっているけど、時々、自分の昨日の日記が今日読んだ本の予告編になる不思議。
僕はずっと自分の人格の分裂に対して、本当に分裂して良いのかって思っていた。感情と行動を分離しようとしたり、思考と感情を分離しようとしたり。
で、さっきの「いかにして、、、」の本で今日出てきたのが、修行が進むと、脳が分割されるっていうフレーズ。シュタイナーさんの分類だと、思考脳と感情脳と意志脳らしい。やはりどこかに同じようなことを考えている人は居るものだ。
この本曰く、修行が足りない人は、脳が未分離だから行動をするためには何かの感情が必要だとかになるけど、そこを分離すると、一般的には行動の理由にならないことでも自分を動かせることになるとか。
この本の修行の下りは全然分からない。霊的世界とか修行が進むにつれ悪霊が惑わしてくけど淡々と修行しなきゃならないとか。
でも、どの動機として自分の行動を選ぶのかっていうのは、自分が決めるしかなくなるっていうのは分かる。思考と感情と意志がそれぞれ主張しているとして、そこで何を選んで行動するのかを選べるようになるのが自由。
継続は力なりみたいな傾向を信仰して行動するのも意志脳の範疇だけど、こんなの成功しなければしんどいだけだと思う。
夏目さんのそれからにもそういうのがあったなぁ。
自然の自分になるか意志の自分になるのか。
でも、シュタイナーさんへの疑問は、脳を分離するのは良いけど、では決めている自分は誰なのだろうということ。これを霊的に高次な自分としているけど、この説明では浸透しなかったのも分かる。
結局、修行は、自分をひたすら可視化していくことなのだろうなと勝手に思っている。自分はある刺激でこういう感情を抱いた。ではこの感情はどこから来ているのかとか、ひたすら見たくないグロテスクな自分を掘り下げる作業。何故他罰的なのか、自罰的なのか。
ダイエット本で、自分が食べたものを記録していくだけで痩せるっていうのがあったような気がするけど、これも自分がどれだけ食べているかを客観的に可視化する作業。流行らなかったな。
どれだけ自分を肯定的に見ている人でも、自分の暗いところは見たくないはず。
だから修行なのか。
最後。
こんなこと言っている僕は、さらに自分に負荷をかけて実験する。
では、おやすみなさい。
夢で逢えますように。