何をもって

 帰りの空が明るかったから何処かに月が浮かんでそうだと探してみたけれど、どうやら世界の外から照らしてくれていたらしい。それで十分。幽遊白書のアニメを見ている。魔界統一トーナメント。とても面白い。これって富樫さんが関与しているのだろうかと思うくらい原作で省略されている部分が引き延ばされているような。あれ、でも再解釈されている部分もあるな。このシーンはトーナメントが終わってパトロールしているときのもの。

ともあれ、原作が紙媒体でアニメや映画になったりしたものって別の味わいがあって良き。ノルウェイの森は雪景色がとても綺麗。直子だけはイメージが合わないけども。確か感想書いたことあったような。韓国の監督だったか。東野圭吾の作品は映画しか見てないものが多くて、伊坂さんのは映画が先だったものと原作から映画のもの半々くらい。小説に浸かりだした時期と映画を滅茶苦茶見ていた時期が被っていることによる。ゴールデンスランバーは映画が先だったかなぁ。乙一さんの映画も良かった。まぁ最終的には紙媒体というか文字媒体の作品が一番情報量多いと思う。情報量というか余地か。ともかく美味しいものはありがたい。

ごはんも美味しいし。タイトルだけ見た本、「味覚を変えたら痩せられる」。そりゃあそうだろう。味を気にする人はいっぱいいるだろうけど、自分の味覚自体を気にする人はそうそういないからこんな本が生まれる。美味しさのありがたさ。空腹が満たされるから美味しいではない。満腹までの過程にしか味を感じられないと考えると、スマホゲームの時間性イベントみたいだ。

さておき。今日はなんだかへらへらしていた。悪い意味ではなく。へらへらしている時の方が人を気にしているし自分のことも気にしている。たかが仕事上の通話でも個人を気に掛けているし、相手が対僕で接してくれていることも感じるし。それはそうと、クライアントで雫の漢字が入った苗字の人がいて、「雫」ってフォルムとか響きがとても綺麗だなってへらへらした。それに続く感じも合わせて宝石みたいでとても良き。雨かんむり(名称が合っているか不明)の漢字は全般的に美しいというか名が体に合っているから好きだけど、雫は特に良いなって今日眺めていて思った。その人も感じ良かったし。

僕の美醜の感覚はこんなもの。数式に美を感じることもつま先くらいは突っ込んでいるかもしれないけど、美醜的観念って特に誰かと共有するものでもないなと。美しいものは誰かに伝えたいという観念も分かるけど、これって共有じゃなくて表明でしかなさそうな。旧願望の欠如。でも、美的感覚って特に利益にならない分社会的打算が入らなくて、自分が食べてきた物事が直接反映されるものなのかも。他人への興味の思考と並ぶくらいに何を美しいと思うかは知りたいかもかも。

言葉の概念は集合知でマニュアルはある訳だけど、その概念を気にするのが法学なのだとやっと分かってきてへらへらしている。言葉をとても気にする学問。結果は現実だから現実だけ見ればとてもつまらないとも思うけど。

人を気にするって諸々と階層があるけど、結局は自分を気にしている枠内でしか人を気にすることはできないのではないか。他人だって自分視点から見れば概念でしかない。本屋でタイトルをむしゃむしゃ食べていると、美味しそうだったからぱらぱらめくってみた本。物理学史。物理学の歴史と思わせて、人の認識がどう発展しているかという叙述っぽい。現代の人の物理的認識ってニュートン的で別にこれが完成でもない。まだ詳しくないからあまり書けないけど、変化を時間に還元したのがニュートンなような。

詳しくないといえば、知ることの意味。僕は記憶に重きを置いていないというか、記憶という概念自体をなくして良いと思っているから、知ることの不都合性を考えている。知ることが力っていうのは、「共通感覚論」を読んでいると、歴史上ちょっと前で、ベンサムさんが監視されている独房みたいなことを提示したとか。たぶん、知っていることが増えることって誰かより知っているという相対的な自分を確立するためには大事なことなのだろうな。これはこれで良いと思う。

僕は誰かに呈示できる、知っていることって無いとしているから、無駄に尊敬とか劣等感とかしなくていいのにと。あと、知ることの弊害として、知ったことって事実としてしまって、知らない状態には戻れない。だから知っているとしたくない。対人で見れば、人が振る舞ったことを知っているとしてしまった場合、もうその事実からその人は動かせない訳で、これを前提に積み重なっていく。関係の時間が積み重なっているとして良いとするというのも1つの在り方だけど、自分の観測によって相手を拘束してしまうかもしれないのも1つ。観測による拘束なんて感じないかもだけど。

共通項にすこぶる疎いのはここか。でも、関係するために共通項とか共有したものって本当に大事なものなのかどうか。僕は対人だと、自分が大事にされているかを見る。構うでも物理的に費やすでもなくて、僕のままでええよって許容されること。変な話、当人から離れことも含めて。

あと、感情の強さに関しては、ベルグソンさんが面白いことを言っている。素朴に自分の感情を掘り下げてみたときに、筋肉努力に還元されるだろうとのこと。感情を強いと思うことは肉体の何処かにその作用があること。悔しいときとか怒りとか悲しみとか自分がそういう感情を抱いていると認識したとき、肉体の何処かが通常と違うことになっている。その程度の強弱で感情を捉えると、自分が抱く感情を知っているところから比較できるということ。

筋肉努力ってなかなかの字面だと思ったけど、確かに、自分の体が反応したことを感情だとすることもありだとは思った。ただ、それぞれの感情を統一化して比べるのは無粋な気もする。感情は肉体の動きを言葉で解釈したものだっていうのは、例えば体調悪い時のは人に優しくなれないみたいなレベルだと正しいけど、肉体が健全で全く反応しないときにも感情ってあるだろうと。ない? 寧ろ、感情が肉体を操作するような。実例としては、思い人のことを考えると、肉体としての心臓が締め付けられる身体感覚が後追いしてくるとか。どきどき。この感覚によってあぁ僕は想い人のことを想っているのだろうなって逆算できる。

でも、普通に考えて、肉体と感情を直結できる精神性のほうが健全だとは思う。ただ、この生き方は何にコントールされているのかという問題提起はあるけども。

皆さん、何をもって自分としていますか。何を美しいと思いますか。

 

ではでは。

 

良い夢を!