生きてるだけの他害性

なかなか疲れた。人を一番疲れされるのは人に間違いない。

 

 

疲れたときには鍋だろうと、塩昆布とほんだしと鯖水煮缶の塩気だけで作った。白菜、えのき、しめじ、舞茸、豆腐。何も付けずに食べているけど、後でポン酢つけて食べよう。あと、漬物コーナーで初めていぶりがっこを見つけたから即購入。サラダは毎日食べている。

 

採用される前に面談した上の方の人と昨日たまたま昼休憩上がりにエレベーターで一緒になった。鞄もってうろちょろしているのかって聞かれて、弁当入っているのでって答えたあと。自分も大阪に近々住むことになるから自炊をしないといけないとは思っているのですって。どうでもええエピソードだけどこの職場で良いのは、上から距離感が絶妙なところ。年下の単なる派遣に、見下した感が全くなくてむしろ尊敬の念まで見えるという。

 

人の質とは何ぞや。

 

冒頭に返ってきて、疲れたのは30分もいかない母親との通話。

なんだか、ヤンデレ? メンヘラ? の恋人と話している気分。よくもあれだけ自分を正当化しながら話せるものだと。あんただけは味方してね? 自分の味方になってくれる人誰もいないのだからっていう発言はぞっとした。待て、味方とか友達とかいっぱい居るじゃないか、あなたの弟である叔父はあなたの意向とは外れたことを言ったから味方でなくなるなら、味方なんて一生できない。

 

僕は面倒だから、聞く耳もたないだろうとふんふん聞いているだけであって、本気で何かになったら、容赦なく断捨離するだろうなという気がする。

 

男社会だから煩わしいっていうフレーズが何回か出てきて、そのエピソード自体は分かる、だから僕は離脱したという感じ。確かに気持ち悪い連帯感がある。引っ越すっていうのも勝手にやれば出し、墓守がどうのこうの、個人的には知ったことではない。

 

でも、我が母ながら不憫だなぁと思うのは、ある社会を否定しながら、結局別の社会に依拠しているというところ。家族だって1つの社会だし。僕が最初に離脱したかったのは家族親族社会だったし。というか母社会。

 

社会を問題とするって、個人が希釈化されて個人がない人にとっては生きやすいし、否定もしやすい。

 

僕が母親と話していて何が嫌かって言うと、全然相手のこと見ていなくて自分がいかに可哀そうかしか語っていないこと、自分はこれをした、でも相手は応えてくれなかったっていうののバリエーションでしかない。だから、あなたは応えてくれるよねって、もう人を人としてみてない所業。

 

で、凄く抽象化すると、他人を人として見れないというのは、僕がずっと書いているように、自己分析が足りない。自他境界が曖昧過ぎる。変な話、我が母ながら、思春期の少女みたいに見えた。どれだけ話しても、本当の当人が見えてこない。結局何を言いたいの?というか、何がしたいのって。

 

社会に疑問を持つなら、自分が作った社会にも疑問を持つのが自然だけど、それに対しては自分はこれだけやったのにって、自分を被害者にするという。例えば、そんなこと墓まで持っていけって思うけど、自分は子供達を大学に行かせて、就職までは面倒見ようと思っていたっていうは確かに親という役割としては立派で、恩恵を受けた身としては何も言えないのだけど、っていうところを上手く付いてくる。

 

この前の厄介なお客さんとよく似ている。

 

その役割をとった貴方は誰なのと聞きたくなる。

母の前にあなたは人なのでしょうって。楽しくしている方が本質なのではって。

 

で、僕が母親からの僕像を見る限り、僕を人としては見てないだろうなぁっていう部分が端々に見える。割と理知的なサイコパスではあるけれど、人って基本的に自分に都合が良くないものだから、関係するかどうかは当人のエゴでしかない。

 

僕は、自分が主体的に関係したいしたいと思っている人は自分のエゴだから、いつ切られてもしゃーないなというぐらいのわきまえはある。

 

 

そういう人だと分かっている以上、いつ断捨離するかも自分次第なのだろうなとは思う。

 

僕は大人の定義として、自他の境界をちゃんと区別できるということにしたい。

経済的に自立しているとかは、時代の話であって、人の話ではない。

 

例えば、母親は、自分はラインより通話が好きなんだーって言ってたけど、通話って人の時間を貰う訳。その間相手の生活を中断させる。だから、文字情報で伝えて、相手の都合の良いタイミングで返してくれたらええわっていうツールが発達した訳で。この文脈を理解しているなら、通話が好きだっていう概念は、自分に時間をくれた相手が有難いってことになりそうだけど、母親は違う。自分が愚痴を言える時間があって嬉しい感。資格試験の勉強していることも知っているだろうけど、この時間は別腹みたいな感覚があるかどうなのか。

 

って考えると、母親はナチュラルに敵を作ってしまう人なのだろうなと思う。

多分、あなたは子供を人として見たことあるのかって言ったらバグるだろうし。

 

まず、自分を見つけている人も圧倒的少数者だと思うのよね。

僕だってまだ探しているし。自分が苦しいことを誰かのせいにできる時点で甘い。

 

自分が社会の中にだけしかいないと思うなら、そんな自分さっさとやめれば良い。

 

最後というか、ほんとはこっちをメインにしたかったウハウハ世界の話。

 

十二国記の最新刊が18年ぶりにやってきた。

この感動は、この前文学フリマに行けなくて買いのがした落胆と逆方向で同じくらいの波。

 

このオタク気質なやつは明日書こう。

 

でも、僕がオタクじゃないのは、共通項で嬉しいとか思わないところ。

太宰治と友達になれると思っていても、同じように来れられても、友達の友達は友達じゃないだろうって。縁もある意味コストで。

 

賛同を得られたいのであれば、あんまり個人じゃないなって。

 

 

おしまい。

 

皆が無事でありますように。