長くなるので

 

 

 

きゅうりとマヨネーズとブロッコリースプラウトとお酒を買ってスーパーを出て、帰りの方が行きより早く歩いた方が時短になると思っていたら、ふと、豚→鶏とローテーションしていた肉を買うことを失念したことに思い至る。

 

帰り際のスーパーは人が多いから好きではない。秩序があるようでないし。個人的観測だと、無秩序は年々増している。スーパーが設置した誘導動線しっちゃかめっちゃか。僕は混沌側だから良く分かる。母親は実家で誘導に乗ってゆっくり1周していた。どうでも良いけどレジを並んでいる時に通路を空けるようにしているのだけど、僕がレジの方に行くと空いた通路がすぐ塞がる。別に明らかに開けていても誰も入って来ないし、誰かが通ろうとすれば開ければ良いやと思っているのかもしれないけど、これってなんだろうって。マナーでもルールでもない、素朴な優先順位というか。

 

動線の発想は、底辺のインスタント派遣の時の事務所の引越しのとき。そのときはもう少し筋肉あったかな。

 

この素朴さが結構大事だったりするのだけど、他の人はどうだろう。例えば、電車帰宅になってから行っていないけど、最寄りのスーパーのお姉さんは買うもの少なかったらカード会計している間に袋に入れてくれるとか。こういう、枠の中にあるようでないような、微妙なところにこそ意思があるように見える。

 

だから、善とかマナーに従っていれば自分が正しいと思い込める人は危ういなと。

それをやっていれば正しいみたいな言動はきっとどこにもない。正しさなんて時代によるし、人によっては機嫌によるかもしれないし。

 

微妙な行為がいちばんやさしい。

 

さておき。

 

昨日の日記はなんとなく読みづらい感じ。無駄に感情的になっていたのかも。なんでそんなに言葉を無駄遣いしているのだろう界隈。

 

まぁ良いや。

 

良くもないか。

 

身の丈で言葉を扱うことの難しさ。

 

 

言語の発達段階を考えていた。まずは耳から音として採り入れて、音として発するようになる。この段階では人はまだ人に成っていない。この後、学習として目が採り入れる。でもこの時には、まだ文字は形でしかなく。そうして小学生くらいで、文字と言葉がなんとなく繋がっていることを発見して、中学高校で文法を含め、語学を集中的に倣う。で、この素養があって初めて読んだり書けたりするようになるのだろうけど、話すように書くとか読めてもいっぱしの日本語を使っているようにみなされるということ。

 

一番は話せるかどうかなのだろうなと。

 

僕は話すように書いているようでなんとなくなく繋がっていなさそうな独り言は好物だけど、それはともかく。

 

そう、確かに発話って人に何かを伝播する上で他の手段よりてっとり早いし、非言語も伴うからやりやすい。けど、滞りなく話している人が本当の自分のことを話しているようには見えない。むしろ詰まってくれた方がちゃんと僕用の言葉を発しようとしてくれているようで好ましく。

 

個人的に発話ばかりやっている職場だから分かるのだけど、発話って基本的には定型文だと思う。文法も文学も知らなくても自分の世界の定型文で発話はなんとかなる。自分が場所を取るための道具が発話だし。

 

だから、世の中には聞き役が希少価値。

 

で、この先に、言葉と自分との距離感があるのだけど、この話はなかなか難しいところ。教育の話なのかどうかも分からない。

 

なので、完全に個人的な僕の話。

 

自分の発話と読みと書きが一致しているようにはどうしても思えない。繋がっているのは確かだろうけど、発達具合が違う。読みが一番発達しているけど、読み脳は基本的には外だそうとする人ではない。ただひたすら取り入れるだけ。そうして、書き脳は、読み脳がひたすらため込んでいる抽象的な歴史を発掘作業しているだけ。膨大ですわ。

 

この文脈だと、言葉で抽象を定義付けるというのも分かるけど、反対は良くない。

でも、こうやって俯瞰できるのは僕の中で感情脳が凄く劣位に置かれているからというのもある。感情とは大っぴらにするものではなくて具体的な人に向けるものだろうって。イライラを向けるのも肉体的にはあるだろうけど、嬉しみが特に。

 

そういう仕分けをしていくと、ここは個人的な領域の文章ではあるけど、階層的にはピンポントの誰かに向けた言葉ではない。時々はやるけど。

 

 

はい、時間切れ。

 

 

皆さんの体調がよくありますように。

 

 

おしまい。