わきまえ

 


なんとなく酢の物ブーム。ミニトマトが高くなってから、きゅうり1本で60円とやや高いけど、夜ご飯と弁当の二食分とすればなかなかお得。ゆかり和えとか塩昆布和えとか手っ取り早いのも良いけど、感想ワカメもあるし、調理時間も数分単位違うだけ。あと庶民の味方のきのこ。きのこはレンチンすると何故か粘っこくなる。しめじよりえのきの方がよりねばる。

酢の物嫌いだったけどなぁ。特に給食で出てきたなます。あれは今では食べられるけど、今の記憶の中で食べてもあんまり美味しくない。どういう味つけだったのか。

今日の最強食材は128円のキャベツ。


さておき。

最近BGM的に流しているアニメは少年ジャンプ由来の化学漫画。化学も収集対象だから面白い。もやしもんっていう細菌アニメも好きだった。なんで今流行っているのか、と考えるとなかなか面白そう。まだ考えていないけど。

ご飯は化学。


SNSが思考の可視化だっていうフレーズを見かけたのだけど、そうだとすれば、まだまだ発展していないような気がする。情報化社会で受けるものも発するものも身の丈に合わなくなっているから、感情と言葉がどんどんズレる。何かうまいことを言っているようで感情にラッピングした言葉でしかない。

ここで、論理とか合理とかっていう指標が出てくるのだけど、感情の為の理ってあんまり意味はない、とまでは言わないけど、特に違いはない。理解はできやすいかもしれないけど、結局は納得が全て。

だからこそ、数学の論理が発展したのだろうと思った今日この頃。誰の利害も関わらない純粋な演算。そこからあらゆる学問が発展できた訳で。

自分が論理的とか合理的だと言える人が身近に居たとして、そういう人で観察すべきは、その人が含まれていない人たちに対してどういう言動をしているか。極地では論理も合理も割とそれっぽくなる。どちらにせよ何を基準にするかでしかないから。両方とも、外に何かを求めるもの。好き嫌いでは他人を動かすことはできないけど、正しさだったら動かせるみたいな。動かせるじゃ生ぬるいな。強制できる。

僕は人の感情より意思の方を重視していて。意思って、論理的には説明できないと思う。だって、そもそも人の感情と言動の間にある何かって秩序がある訳ではないし。

という感じで今日のスーパーでレジしてくれた新人さんが、会計している間に持つところを上げてくれたことを好ましく思っていた。なんだか姑視点みたいだけど、減点方式じゃなくて加点方式なので。

 

んで、やっと本題。今日の思考。

疑似恋愛と恋愛感情とか諸々を考えていた。あと前向きとはなんぞや。


前向きに関しては、未来に向いた視点が何故ポジティブなのかという点。
今しか見ていない視点って、表現する言葉がないなぁって。一番近いのは下だと思うけど、いまここには方向を指示する言葉がないのではないかって。点には方向ないもの。一次元の話。

仮想的に、性欲が伴わない恋愛感情というものがあるのかという思考。

ないというなら、恋愛感情は性欲を前提とした後付けの感情でしかなくて、あるとすればそれはそもそも恋愛なのかという禅問答。

恋愛感情と結婚で考えると、性欲を伴うのはなんとなく分かる。要は、性欲という本能でうやむやにしているうちに社会的にカップリングさせることで配偶関係を当たり前にするという機能。夫婦関係が外的圧力で固定化されなくなった現代では、この接続には無理がある。

好きな人とはイチャイチャしたいのが当たり前で、やってきたあなたが悪いと同性に言われた経験も懐かしいけど、これも何を基準としているかだと思う。

そもそも本能って、自分の為にあるものであって、性交渉が疎通であるって詭弁でしかないように見えるのだけどどうだろう。睡眠も食欲も1人で完結するのであれば、性欲だって独りで完結するもので。

むしろ、性欲が働く場面で働かさない方が意思で見れば相手のことを大事にしているような。自分で慰めている限り、感染症のリスクも妊娠のリスクもない訳で。性嫌悪思想じゃなくて、セックスが個人的な繋がりとする基準が良く分からないなというだけ。どれだけ体を重ねても心は重ならないのは、性産業である程度誰とでもできる時点で交換可能であることは実証されていて。


ともあれ、僕が人と共同生活できるのにしないのは、こういう同調圧力が面倒だからだろうなと。交換可能であることを交換不可能性でやるって、外から当たり前となっていないときっと無理。で、体を求められたから好いているのだっていう思想も受け入れられない。

では、性欲を度外視した好意でも恋愛感情になるのだって仮定してみると、僕は恋多き人になる。交換不可能性で比較はできないところの相手に対して、触れてみたいなって。

ただの変態でした。


おしまい。


急に冷えたので皆さん暖かくありますように。