規定値

 世界はちっとも変わらない。変わるのは自分だけ。

 

 昨夜は寝入ろうとすると隣から轟音のいびきが聞こえてきて、いびきは意思じゃないからしょうがないけど、知らん人と疑似添い寝するのも嫌だから雨音アプリを聞きながら寝た。そしたら夢に熊が出た。くまじゃなくてもっと生々しく残酷な動物的な象徴。一場面を抜粋すると、何かラーメンみたいな麺を三人がこたつで食べているシーン。対面に唐突に

顕れた熊の頭が麺を啜りだす。それを見て僕は同席者に、食べている間は大丈夫だからこっちに来るように言う。同席者はこたつに潜って移動する。その時に、熊の手が出てきて机の下に居る同席者を爪でがりっとした。死の暗示。そうして、大型の熊を兵器のように飼育

しているシーンは力の隠喩。熊怖い。動物園も嫌いではないけど、檻がなくなったらすぐ食糧になるのが人間だからなぁ。なんとなく野生に対する劣等感の裏返しという気もする。

 さておき。酔いが回り切る前にどこまで書けるか。自分の頭に在る言葉すら人はコピペできない。あぁ、まずは、今日仕事していて思ったのは、発話の圧倒的情報量。通話ですら圧倒だし、現実で言ったら、発話している人から読み取る情報って人では捉えきれない。のに、なんとなく疎通ができている現実的不思議。僕なりに分析すると、お互いに自分が捉えるところしか見ていない中での共通項が対人関係という気がする。人から発せられる情報量は1つの歴史だから全部探ろうとしたら発掘になる。発掘作業はするのもされるのもだいたいの人が嫌だろうな。自分が自分であるのが当たり前の人に、その貴方の起源はどこにあるのだろうって質問するのはかなり失礼なような。

でもそこが知りたい。ただ、この振る舞い自体がなにやら相手を不調和にさせそうな。結局当人の頭の中に限られた世界だから杞憂なのだけど。あまり自覚はできないし。

ここで、思い出すのが、直近の元恋人さんに言われた、「なんだか利用されている気がする」というフレーズ。これは当人が従来そういう歴史を経たということもあるけど、なんとなく真理を突いているような気がする。僕は僕を使おうとする人にはそう返すけど、別に金銭も肉体も使わせてはいない。ついでに言えば、時間、はやや微妙だったか。人に対して試金石みたいなことをするのは良くない、のか。

 利用の定義ってなんだろうって思うと、申し訳ないけど、自分が費やした心が来ないように捉えることだと思った。つまり、恋愛感情って返ってくることが前提となっているし、この対価って、例えば、僕が好きだって囁ければきっと完結できていた。振る舞いの前に言葉が大事。でもこれって、言葉遣いじゃなくて、言葉遣われではとか。

 という感じで、僕は他人に無関心な現実的評価だけど、普通に他人のことを考える。一回もあったことない人もそうだし、日常ですれ違う人の情報から、その人のことをいちいち想うくらいの時間はある。頭の中の時間は物理的な時間と流れ方が違う。

 確かに「利用」っていう語義で言えば、僕はあらゆる人を利用していると思う。でも、直近元恋人さんは僕のことを「使用」していたように見えた。利用と使用の違いって微妙なところ。どっちも意思的ではなげ。僕の中では、利用は在るものをあるとして過ごすで、使用は、用途を踏まえて使う。人間は使用できないのが当たり前。

 でも、人は平気で人を使用する。自分を成り立たせるための他人。自尊心を守るために他人を生け贄にする感覚。こういう人も居たなぁって歴史を語るとき、他人はどうでも良い。他人のことを思い出すことが尊重と等しいとするならどうか分からんけど、この思い出す思い出されるってバランス取れているのか。

 ノルウェイの森の直子が自分のことを覚えていておいてって言って亡くなっても、主人公は忘れていくっていう他人に対する認知の限界を示している。のだけど、人を忘れるって何ぞやって思う。致命的に経験した関係の人って忘れんだろうって。あと十年後にどうなっているのかは定かではないけど、定期的に思い出すから残る。というか、人を思い出せないくらい余裕がない生活が良く分からないのだけど、どれだけ時間がかつかつなのだろう。

 まぁ結局のところ余裕も主観的な話でしかないけど、余裕は客観的に作られるという感覚の人も多い。

 

 最後。僕は人って人と接するとき色々考えているのだろうなっていうのを初期値にしている。自分が人からどう捉えられてるかとか自分がどう捉えられているかとか計算して。でも現実世界を観察すると、人の観察は自分の範疇だよなと。

 

何が言いたいかと言うと、どれだけ生きても自分のことすら分からないのが人間。

 

では、みなさん良い夢を。