不自由
なんだか筋肉痛だった。太ももの裏側部分。思い当たる所がないと思ったけど、唯一いつもの動きと違うことをしたのはお風呂掃除。なんとも脆弱。だけど、特に生活に不自由していないし体も重くないから、最低限の体しか搭載していないともいえる。筋肉は柔らかいけど遅筋は結構発達していると思う。平気で筋肉痛になるということは、意思と体が合っていないともいえるし、まぁ解釈は色々ある。
運動不足というのが一番早いか。バッティングセンター行くか、キャッチボール行きたい。ボールを投げるのも打つのも、体の動かし方が日常とは違うから、ゆっくりやっても良い運動になると思う。プロ野球選手で太ったりタバコ吸っていたりしても成績残せる人がいるのは、体の動かし方が天才的ななんだと思う。テニスもしたいけど、テニスは連続で動かさないといけないから、全体量が足りてない。すぐ疲れると思う。
あと、これは精神世界の話だけど、物理的に場所を取りたくないからなるべく薄くなっているという説もある。太らない体質だからと言ってしまえばそうだけど、太る体質だったら精神性自体も違うかもしれない。
精神と肉体はそういう意味で直結しているのか。
なるほど書きながら思いついたけど、ここは結構大事なところか。肉体は精神を決めるし、精神は肉体を規定するというような相関関係だから、どっちもどっちだけど。もうほぼ決まっている状態だから、ここから何か欠けてもあまり動じないだろうなと思うけど、一から違ったら僕はもうこの僕ではなかろうというくらいの感覚。
だから、現世で充分ということなのか。
これほど研究の為に都合の良い器は居ないという意味で。周りを見渡すといちいち、何かをするためには何かの動機が必要だっていうことになっていて、僕がやっていることを大っぴらにはしようと思わないし。という意味ですこぶる使い勝手が良い。好いてはないけど、好いているっていう自覚がなくても稼働してくれるところも。自分を愛せないと人を愛せないは嘘とできる。
輪廻転生論臭いけど、もしかしたら現世自体が夢の合間みたいなもので、無限の転生の中で自分の魂にそぐった時にしか目覚めていないみたいな考え方もある。人生の時間は長いけど、この長さも人類の歴史としては一瞬でしかなくて種として見れば。どちらかと言えば、いまここの方が夢臭い。
ただ、これは人間関係にも言えるような気がする。対社会とかでもいいけど。台風でしんどい人が居るのにラグビーで楽しんでいるのは不謹慎だという発言を見かけたけど。これを不謹慎だと言えるなら、もはや生きているだけで不謹慎であって、そこまで突き詰めるなら正しいと思う。でも、他人に不謹慎だって表現できるってことは、相対的に自分が不謹慎ではないと自己判断している訳で、この態度自体が不謹慎と評することができる。
これは自分がしんどい思いをしている時に他人がのーのーとしていることが気に食わないっていう負の感情と自分がしんどい時に優しい言葉をかけてくれるっていう正の感情連結はしていて、この両者がドッキングして共依存する限りでは平和ではある。勝手にやってくれよって感じだけど。
ここのポイントは、相手のことを考えている訳ではなくて、自分の感情を大事にしているところ。もちろん自分の感情は大事にしたらよいけど、自分の感情の為に他人をダシに使うのはよろしくない。心を痛めるとか、匿名的なツールで書かれているのを見るとほんとかよっていっつも思っている。自分がまともな人だって表現するための社交辞令にしか見えん。
結局のところ、人って具体的な人しか人に見えないのだから。
何を人とするかとか大事なものとするかの枠も自分が規定するところと社会が規定するところの両方面あるよなと。大事にするの中身もなかなか錯綜している。大事に思っていることを表明するだけで大事しているとされるのか、それとも物理的な資源を割けば大事にしているとされているのか。
大事なものという流れで、たまたま明らかに虐待されて死んだだろうっていう猫の画像を見た。腸の辺りがむき出しになっている不自然なもの。これを見た時に、虐待した人に怒りなんて向かわなくて、この猫に対する感情しかない。そうして、この感情を誰かと共有したいとも思わない。感情として表現できる言語なんぞない。小学校くらいの時に買っていた猫が坂に止まっているうちのワゴン車のスライドドアに挟まれて死んだときと近いし、グロテスク具合だったら、神奈川で鳩が首外れかけの状態で死んでいたのをつっつくカラスの図とかあるけど、何にせよ、共有するっていう感覚があんまり分からない。
具体的な人の感情も分かるし、その感情に対して返すっていうこともしようとすればできるけど、抽象的な悲しい出来事で悲しいを共有するみたいなところが分からないというだけ。黙とうとかも意味が分からん。祈るなら儀礼じゃなくて自分の意思ですれば良いじゃんって。
この共有って、悲しさならまだ害はないけど、怒りになってくると歯止めきかなくなるからやっかい。楽しさの共有がいじめだったりするし。
そもそも、言語化した感情って共有するために加工しているだけではとか。
もちろん加工も大事だけど、加工された感情を自分のものとして学習してしまう人も多いような。
最終的になんなのかというと、やはり言葉の話になる。
言葉の神秘はなんだかんだ解明されていない模様。
言葉を発するとき、発する人格があるって推定というか確信があるのが対話だけど、全部の発話が自分に直結しているかって聞かれたらやや怪しくならないだろうか。
物理的な発話は、どちらかというと身体性に依存している。これは僕が自分を観測した限りということ。ここで書いていることを普通の会話でやるかと言えばやらないし、やらないのは、こことは違う物理世界だから。
では、匿名的世界で暴言を吐ける人はなんなのか。
ってなると、ここも身体性の話だと思う。物理的な抑圧の解放のために、言葉を振り回す。
あんまり言葉を遣えている人ではない。
読み書きとかもあったけど、ここまで時間切れ。
おしまい。
被災した方が安眠できていますように。