誰が自分

今日の夢は面白かったような気がするけど、あんまり覚えてない。どこを区切れば自分じゃなくなるかみたいな話。人の枠は人の肉体の枠にはとどまらない。記憶の中に居る他人も人で人から切り離された人も人だし。では、最小限の人とはどこに在るのか。

 

これって、他人だったら分かりやすい。他人が人であるかどうかを決めるのは自分だから、自分が人と捉えられる人をそう決めればいい。

 

でも、自分になると難しくなる。哲学の難問。自分が何をもって自分とするかという素朴な定義。人一般ではパスカルさんみたいに「考える葦」であるとかでも良いのだけど、自分になると一般論は適用できないわけで。

 

まぁ、自分が人間であるかどうかなんて自明としているのだろうけど、何をもって自明なのかは難しくない? 痛みなのか苦しみなのかしんどさなのか、どうせこの肉体に乗っかるしかないのか。

 

僕は人なのか良く分からない存在があって。

これ人口比率大多数に違いないのだけど、自分が一般人だと認識している人。いや、別に良いのだけどこれの弊害は、他人も自分と同じように認識しているべきだって他人の中身まで決められること。

 

自分の感覚が普通だと思っている人ほど怖い人種はない。

一般人という括りで自他の境界をなくすなんというか粘度がある繋がり。

 

僕の中ではもはや今の世の中一般人なんて存在しないと思うのだけど、領域を区切れば一般論にはできる。自分が一般人であるっていう名札は、自分が一般人ではないと思う人を攻撃できる武器ではない。

 

 

まぁ良いや。

 

 

買い足しに行ってきたのだけど、休日の雨は良い。体が濡れても服が濡れても関係ないから、雨が世界を洗い流している作用をしっかり観察できる。日常に雨が降るのは変化の象徴に見える。街頭に照らされた雨に風がふいて、スタンディングオベーションみたいに波立つ水面が綺麗。

 

こういう瞬間を捉えて共有しようとするのが写真なのだろなとか。目の共有には弊害はない。一方通行なので。自分の目が捉えた瞬間を提示するだけ。

 

このだけができるようになった今の世界は、不幸せには見えなかったりする。

僕は自分の目線はあんまり切り取って提示したくないと思うからやらないだけ。弁当とか晩御飯は相手が見たそうだったら切り取るけど。

 

僕の欠陥は、誰かと自分の世界が共有できるものではないと認識していること。

他人の世界も分かるから、そこに擬態することはできるけど、結局共有はしてない。

 

 

どうでも良いけど、昨日の自分が変態だっていうところで、深淵を見つめる人は深淵に見つめられているのだっていう、ニーチェだったかの言葉思い出して、これを変態に書き換えたら、僕がただの変態なだけという不思議。

 

 

人で考えると、直近の元恋人さん、一切連絡が来なくなった。それはそれで自分の生活をちゃんとやっているのだろうと勝手に想像しているし、世界は良好になっているだろうから、全く問題はない。ちょっとだけ思うところはあるけどまぁ良いや。

 

 

僕の肉体的電池っていうところで考えると、個人的にいつ切れるか分からんなって思っている。人がいつ死ぬか分からないっていう水準で。

 

プロの文筆家でも一日千文字が普通とか見ると、この何の対価もならないところで燃やしている自分はいつ消えてもおかしくないわなと、客観的に。まぁいつ死んだとしても、地縛霊にはならないくらいには生きているのは確か。もっと世界を知りたかったなぁくらいはあるかもしれないけど、恨みつらみでもなし。

 

自死には向かわないけど、さっさと人生を閉じたら良いじゃんっていう観念はいつでもある。これと自分を分けることが修練だった。

 

前向きであるべきっていう観念の不都合性は、自己の後ろ向きな側面は自分じゃないってみなすところ。落ちている自分も間違いなく自分でしょう。

 

だから自分に逆襲される。

 

ここまで。

 

眠い。

 

おしまい