自己中の範疇

 

 

母親との通話でナチュラルに嘘をつく自分は何ともしがたい。1週間前に通話した時に、あと1週間くらいで米が無くなるって言ったってけどまだ米送れない。あと何日か持つよねと聞かれたときに、大丈夫と。

ちょうど金曜の弁当でなくなったのだけど、何故嘘をつくかというと、言ったところで結果が変わらないから。あと、気分悪くされると僕が疲れるという自己防衛。米が遅れたところで買ったら良いし、なんなら焼きそばとかパスタを冷えても大丈夫なように調理すれば良い。

これって本当は、もう別に米送らなくても良いよって言ってしまえば関係が切れるまで一歩進むのだけど、サイコパス的な僕はこの親子関係を一種の環境と捉えているから、使えるものはなるべく使う精神。親に感謝していないのかって素朴な情愛論で来られたら、いや、それはあなたが勝手に施したのでしょうとなる。施したことに対して感謝するかどうかは相手の勝手であるというのが施しのはず。

というより、人の定義として、あんまり人として見られていない感があるからだから鏡で返しましょうみたいな感じ。僕の中の「人」は尊属であることだけで優位を取ろうとしない人。
人の年齢を過剰に気にする人って、自分より若いだけで相手より強くなった気分になりそうだし。

僕は、僕を個人として見ていくれる人には、割と自分の意見を言えるような。

この話、ほんとうにどうでも良いけど、自分の根っこのところだからやっかい。僕は人との関係において、相手の機嫌を害してしまえばアウトという観念がある。母親の機嫌を伺いながら、友人宅に遊びに行くかどうかも裁量でアウトかオーケーか決まる。だから、人の機嫌の起伏が基本的に怖い。姉も妹も同性だった分、当たりは強かったろう。僕は姉も妹も怖かったけど。

というところから人嫌いが完成している。

この文脈で言うと、僕が法律資格得ようとしているのは、自分が自由に成る為なのかもなと思うと自分物語として完成度が高い。整合性があってなかなか楽しい。ローカルルールで動いている田舎のねっとりとした感情とか習慣ルールをもっと大きなルールがあるのでなって、言わなくても伝えられる防具。


僕は別に家を継ぐ気は一切ありませんだな。
先祖のことは勝手に祈る。祈っているという体裁は要らない。仏壇とかがまさにそれ。


僕が誰かに自分が人とみなされたなって思う共通項を分析すると、関係性の外で、僕の存在を嬉しいと言ってくれる人。存在にはもちろん言動も含まれている。嬉しいという言葉は僕にとっては最大級の殺し文句である。

だからといって何かが変わることはない。変わっているのは、何処にも出ていかない自分のマントルみたいなところが嬉しい。ここが嬉しいからと言ってあまり絡み過ぎるのも悪手だけど。

ありがとうっていう感謝の言葉は、ちゃんと交換できるところでは使いすぎるに越したことはないけど、言葉の意味自体に需要と供給があってある意味しんどい言葉。

お弁当に対するいただきますとあんまり変わらなくて、あんまり対人特化ではないなと。

僕は勝手に言葉の中身を分析しているのだけど、感謝って相手があってこそだけど、嬉しいは主体が当人で、その人の主観でそう思ってくれたことが有り難くてたまらん。ある意味フェチであるのか。やはりただの変態である。

まだ嬉しく思われているのかは知らんけど。

母親に欠けているのは感謝だと思う。方向性の観念がない。
子供から返ってきたものが全くなさそう、発言を聞いている限り。だから僕はどれだけ母親が僕の存在を援助してくれた存在であろうが、人としてのレベルは二段階くらい次元が低い人として見ている。だからとて、見下すもない。見下すって、自分が他人より上であることを確認して、現状維持でいいっていう観念だとしているけど、僕はそれどころじゃないので。

会話はできるけど中身は通じないのは普通のことだけど、会話が通じていることで自分が分かって貰っているという感覚もやばいね(自戒


最後。
最古のファンタジー古事記を一節づつ音読しているのだけど、当時の日本人の感覚はなかなか凄い。イザナギの動きでいちいち神様が生まれる。識字率はなかったとしても、当時の観念はそんな感じだったとか、この書籍を継承してきた日本人が好きだわ。

イザナギが黄泉の比良坂から返ってきて体を洗っている時に何柱の神様が生まれたのか。僕は左目を洗った時に生まれた天照大御神より右目の月読の方が好き。伊勢神宮行ったときにもちゃんと月読の命のところにも行ってきた。

日本人の信仰対象って、もともと寛容だったのだろうなと。
現実がしんどかったから逃避だっていう考え方もあるけど、西洋史見ているとそうでもなかろうなと。西洋史の宗教は殺傷性があるので。


おしまい。

今日も自分が嬉しくなる為に勝手に祈る。


おやすみなさい。