証明

 

 

金木犀は存在感が半端ないから今年もそんな時期が来たのかと思うけど、一年に2回来ているのではないのかっていうくらい感覚が短いような気がする。これは経年劣化もあるだろうけど、寧ろ嗅覚が時間の観念に囚われないものだからという思い付き。

 

というか、五感自体が時間とは関係ないところにあって、時間と感覚を結びつけるのは精神か。時間の観念は精神の中にしかないのか。感覚が慣れるのは単なる学習であって時間とはあまり関係ないような。手続き記憶か。

 

時間と記憶の関係は、記憶は過去しか対象にしないところか。ワーキングメモリも直近の過去でどれくらいの情報を留めておけるのかの話で。

 

さておき。

 

天気が良かったから洗濯機を回して、ブランチの野菜モリモリちくわうどんを食べたあと、近所の古書店に行ってきた。ちょうど出てきたボードレールさんの惡の華をそろそろ読んで見ようかなと。

 

何故か大盛況だった。あれだけ人が居たのは初めて。確かにあの古書店は素晴らしい。名前出すと生活圏が絞られるから言わないけど。結局目当てはなかったけど、なかなか魅力的な本がいっぱいあった。美術史の本が一番気になったけど、あとはデカルト方法序説とか諸々。ただ、今の読書時間の鉄壁のラインナップに割り込むほどではなかったという。

 

 

もう1つさておき。

 

 

歩きながら考えていたこと。

 

言葉と学問用語の違い。この言葉はこういう意味ですで使うのが普通の語彙だけど、学問用語は概念。概念は素朴な語義じゃなくて、言葉に込められた意味が歴史を踏まえて凝縮されている。

 

法律用語だけど、割と一般的になっている表現の自由とか、性犯罪者には厳罰をみたいなものとか。別に厳密に使い分けろじゃなくて、同じ言葉を使っていても全然別の意味になることが多々あるという。

 

日本国憲法を理系の人がマニュアルのように読んで全然意味が通じないみたいなのをむかーし見かけたけど、広辞苑の語義で読み取れるのであれば、法律学はなくても良い。

 

難しや。

 

ルールの正当性で一番分かりやすいのは、そういう歴史が積み重なっているだったのだろうなと。若しくは、これは決まっているものだから、か。

 

概念的な言葉と広辞苑的な言葉の違いは直感的には明確なのだけど、言語がするのは大変。広辞苑的な意味が付与されている言葉を自分で逆の意味に使うみたいなのが概念ではなかろうかとか。

 

例えば、殺人って、どういう文脈でも使える。結果的に人を殺したのであれば交通事故でも。でも、刑法で言う殺人は、故意で現実的に人を殺せる行為でもって人を殺した時に成立する訳で。故意もわざとという意味ではなく、これをしたら人が死ぬだろうということを認識していたこと。

 

 

今日文字が全然進まないのは、自分の中で消化しきれていない話題だから。

 

 

結論は決まっている。

僕は、人の言葉を概念として捉えるから、広辞苑的な意味とかあんまり関係なく認識している。心配とか頑張るとかが嫌のもこれ。

 

心配だったら、ちゃんと自分の体を動かして安否確認するくらいの衝動なのかとか、頑張ってじゃなくて生き延びてだろうとか。概念として自発的じゃない。主観と客観の混同は別に良いとは思うけど、勝手に混同しているという自覚がある方が良い。

 

文字が進まない日もあって良いか。

脳内発話数は凄いことになっているし。

 

 

では、今日もお祈りして寝ましょう。

 

熱が下がりますように。復調していますように。生活がつつがなく在りますように。僕以外の全宇宙がほどほどに満たされていますように。

 

おしまい。