操作性

 

 

ブックオフならあるだろうなと思ってお昼休みに寄ったら案の定あった。悪の華惡の華じゃなかったのは残念だけど、表紙の絵が歴代の表紙の画像を見た限り(何文庫から出ているか調べた)好みではある。グロテスク具合が。全然関係ないけど、ドグラマグラ感がある。

 

冒頭と一節、読書時間に読んだけど(ヘミングウェイさんが残念ながら二軍落ち)、なかなかグロイ。読んでいると変な唾が出るところだと、乙一さんに近いところがある。これもおそらく全然関係ない。

 

そうして、詩の読み方も良く分からない。パスカルさんのパンセは詩なのかという感じだし、宮沢賢治さんの詩は何だか好き。心象風景を文字から再構築するより、文字から捉えたイメージをそのまま放っておいて鑑賞するのかな。絵画と近いそう。もちろん絵画の鑑賞の作法も知らない。

 

まぁ、表現ってそういうことだろうなと。捉え方に形がないこと。

おそらく、ボードレールさんもこう読み取って欲しいっていう形をきめていないはず。

 

 

これはつまり、読書の効用に直結しているような。

そう、自分の範疇の外が見えるのが本。経験をしないと人は成長しないって言う文脈は現実とフィクションの経験は違うっていうことだけど、何が変化するのかという意味ではフィクションでの経験と、生での経験は全然違う。

 

生で経験と、読書経験が一致するなんて思っている人は、だいぶおかしい。生で生きているところは、いかに自分の場所を取れるかっている椅子取りゲームで、好意も善意も自分の場所が確保されている限りだから、なんとなく限定化されている。この上で学習って、要は自分が同じように場所を取れるためにどう振る舞うかっていう、人格の継承ではなくて、物理的な継承みたいな。

 

極論でしかなくて、人が自分を見出してくれるっていう感覚もきっとあっていい。

けど、個人的には、人と読み物がどう違うのかというのが分からない。肉体があるかどうかで捉え方が変わるわけでもなし。

 

 

これはどう接するかっていう意味では肉体の話だから、そりゃあ紙の集まりより生生しい肉を厚遇するわっていうのは分かる。どれだけ変態な僕も本とは添い寝はしない。

 

 

大事なのはというか、僕が言っている経験は、受信側の話。

情報として生の経験の方が重いってホントかと。自分がしんどい思いをしたものが自分の経験だってしてしまうことは、他人に説明するときにしんどいことをしなきゃ生きている価値がないっていうしかない。

 

ある意味呪いみたいな連鎖よな。

 

 

自分よりは楽させたくないっていう素朴な感情で歴史が出来上がっている。

次世代が自分より楽に在るべきっていう精神性が人間にあったなら、とっくに争い終わっている。

 

んで、楽にしたのは化学とか科学な訳で、これには経済的な意味合いの方が強いから、今の

方が昔より精神性が発達していると思ったりしてしまう思考はだいぶ怪しい。

 

仕組みの上で生きているだけだし。

 

 

っていう科学技術を取り去って見ると、特に個人って進化してない。

多分読書しか娯楽がなかった時代の方が精神性豊かだったっていうのも嘘。

 

 

 

僕は只の変態なので、本の言葉と人の言葉を等価としている。

要は、言葉は言葉でしかないとする精神なのだけど、だからこそ精神に響く訳。

 

人格には言葉は響かないと思う。僕は人格自体もゆるーくしているから繋がるけども、普通の人格は人の言葉にいちいち反応してられない。

 

言葉が痛かったとかできる人は、ちゃんと人格が自分として場所を取っている。

 

 

僕の痛みは、あまり共通項にならないだから措いておく。

 

 

では、また明日。