アホウドリ

 

 

今日は大雨の予報だったけど(伝聞)、どうやら晴れたらしい。なんだか暖かいし。令和天皇陛下の御力ということか。という日本最強説を信じている訳でもないけど、日本に生まれて良かったとは思っている。第1言語が日本語で良かったし、生きづらいと思える時点でだいぶマシとも思う。結局はどこに居るかではなくてどう在るかだとは思うけど、そうなる前提の土壌がある国の1つではある。

 

同じ日本だからとて、時間を隔てた日本と文化が同じとはならない。日本人が全員日本史知っている訳でもなし。でも、古事記は楽しい。突拍子のなさは旧約聖書とかギリシャ神話と近そう。ただ、さすがの八百万、神様の挙動でいちいち神様が生まれる。当時どういう階層まで読めていたのかも分からないけど。スサノオノミコトはやんちゃ坊主でお母さんであるイザナミが恋しくて泣きわめいて天変地異を起こすという。

 

挙動で神様が生まれる観念はなんとなく浸透しているのかもしれない。スピリットは精神だけど魂ではなくて。この文脈の神様は、信仰対象ではなくて、不可知なものへの畏れなような。信仰とか宗教って要は行動規範を自分の外に委ねること。常識とか当たり前とかに近い。

 

あと、法学やっているとだいたいの概念が輸入なことは気になる。日本が鎖国していて法概念が未発達だったのかどうか。ルールに疎いという国民性はあるのかもしれないけど、ルールの精緻化というのは、他人を個人ではなくすること。ルールには個性が関係ないのはスポーツでも同じ。

 

三権分立は知っている人多いと思うけど、分担と均衡で考えるとなかなか面白い。政治家ないし立法者にとっては法律も政治の1つの選択肢でしかなくて、行政は法の縛りがあるけどその中で恣意的に動こうとするし、それを監視するのは司法だけど、司法は憲法の枠を越えられない。という流れでいうと政治家を選ぶとか政治家になれる国民が一番強い。

 

 

生活と精神のチェックアンドバランス。

 

今日はなんとなく現在進行形でもの悲しいのだけど、これがどこから来ているかが分からない。自分に感じる悲しさは言ってしまえば、なんでまだ自分が存在しているのだろうってこと。この感覚はどれだけ人生を楽しんでいても相殺されない。経験とも関係ない。

 

マイナスとプラスが全然違う次元にあるから、生きていて良かったっていう生生しさと、生まれたくなかったっていう観念は繋がらない。

 

僕は素朴にできるなら生まれたくなかったなっていう観念を持っているのだけど、まぁ現世は修行ぽいから、なるべく自分を使い切ろうかくらいの気概はある。結局のところ人生でどう過ごすかは、制限時間が分からない状況で自己の時間を消費する対象に何を選ぶかしかない。

 

未来の自分の方が今の自分より進んでいるかも分からないし。

 

 

 

このもの寂しさを時系列で分析しても、この時期に何か悲しい出来事があった訳でもないなぁとか。あえて言うなら気候の配合で何か寂しさに触れることがあったのかもしれない。

 

まぁ懐かしいという感情には、必然的にその時空には戻れないっていう意味の悲しさ寂しさが含まれているにちがいない。

 

みたいに他人の内面も把握できると良いのだけど、僕は他人に対しては現実的な表象でしか判断できないところがある。これはたまたま機嫌が悪かったのだとかみたいな感覚になじんでしまう。

 

いや、これが物理的世界での人間関係なのだってなったら、まぁそうだろうなとは思うのだけど、これって相手が自分にとって都合がよくないから機嫌悪くなるのではとか。そもそも相手は都合が悪い存在なのだってならないのか。都合が良い人しか要らない人は要らない。

 

 

都合って英訳したらどういう言葉になるのだろう。

Convenienceとか?

 

おしまい。

 

皆さんがほどほどに都合よく生きられていますように。