世界観

 


仕事の日より早く起きてにゅうめんを食べた。昼ご飯はずぼら飯。刻み海苔と鰹節のマヨネーズ醤油ご飯。実家から荷物が届いた。柿が2個入っていた。料理は好きだけど果物を剥くのはおっくう。柿は二日酔いに効くらしいだけど、スイーツの為に稼働するエネルギーがない。いっそのことサラダにするならあるいはだけど、 難しいところ。甘みが強いものって刺激が強いから、1人では愉しめない。柿は甘みが半端ないからなぁ。

大根の葉っぱも届いた。イメージでは刻んで浅漬というかふりかけみたいにしようと思ったけど、実際はもっともっと育った葉っぱだった。なんとなくパスタが合う気がする。ラーメンでもいけるか。甘みより苦みとか辛みの方が好きかも。甘さには罠がある。

やっぱりエネルギーには志向性がある。物理法則とちょっと似ているのか。むしろエネルーっていう観念は、志向性がないところに対して用いられる観念なのかも。エネルギー消費って割とフィクション。カロリーとか疲労とかはあるけど、精神エネルギーは体に流されている。もはや体と精神は1人だけど2人みたいなものなのかもとか。


なんだっけ。

もっと考えなきゃなぁと。考えるについて考えること。
世の中の人の考えるについて認識が謝っていると思うのだけど、自分に利に成る為の考えるなら、アウストラロピテクスとからやっているし、犬も猫もやっている。

僕の考えるの定義は、自分の認識が本当に正しいのか、ひいては自分が本当に自分なのかみたいなところ。知識とか思考を外付けにできるのは凄い。

要は、自分を補強する武器として思考とか知識があるということ。別に羨ましいとも思わないけど、どんな本も、これが自分に返ってくるとは書いていない。

いや、別に他人事的に観測して自分を守るっていう手法は全く問題ないけど、自分の利の為でしかない関係で繋がるなら、その関係を維持している限り変化はないよなと。もちろんこれって変化がない前提の関係だから。

 

例えば、恋人の条件みたいな話があるけど、自分が選ぶ立場であるっていう自己肯定感がナチュラルに育まれている人は時代の寵児だと思う。最終的には物理的に選ぶことにはなるけど、条件で人を見るって、相手の人格はどうでも良いのだろうとしか。

それを平気でやっている人格が優しいとか普通はとか常識はとか普遍概念で人を見る訳。

人間になりたい妖怪人間な気分。

多分こうやって人に要求できるのが当たり前な観念が自分にあったらもう少し違う人格になったのだろうなと。僕は要求されたら要求するよくらいだから、なんとも無様な姿をさらしてしまった。


こういう見地って、当たり前の人間関係を断捨離した結果。分かったのは、人って関係を自分としているから、離れたところでなんにもならないところ。ほんとになんにもない。

人は自分の利害しか観測できないっていうのは真理だと思われる。多分学者も変わらない。自分が反応したことを研究した結果。


そう考えると、人はそれぞれ自分である限りすげーってなる。誰かから同意が在れば満足とかではなくて、ってなるとほぼ居ないのだけど。

人が綴るのはほとんど、自分が肯定されたいからだろうなと思う。
僕はここが肯定されると困る訳で。

まぁ良いや。

では。皆体調と心調崩していませんように。

おやすみなさい。