にもかかわらず
なんだかもやもやする。
今日は暖かいものが食べたかったから、豚しゃぶ肉、木綿豆腐、白菜、しめじ、えのきで味噌風煮物。醤油が切れたから濃口から薄口に変えてみたのだけど、色が付かないし塩味が強いしでなかなか難しい。濃厚な醤油の甘みは大豆の甘みか。刺身醤油はあまり好きではない。
結局ほぼ引きこもっていた。選択肢というか可能性を先に自分に示すと萎えるのだろうなと。無軌道じゃなくなるから。分散される。僕の本質の一方の端には無気力が居る。ついでに退場したがり。反対側はもっと操縦しにくい。
さておき。
何を紡ぐか。
意思の話というか、言葉の話のというか。何かが積みあがっているのだけど、積みあがっている重みがない。もっとふわふわしたいところ。ふわふわするためには、諸々の重みになりそうなものをせっせと断ち切っていくこと。重みというは安心に等しいけど、安心は特に要らない。求めるものではなくてたまたま在るものだし。
そういえば、実際にあった裁判なのだけど、暴走族を規制する条例で、安心は保護法益にはならないみたいな話があったな。保護法益は刑法の観念である行為を犯罪とするにおいてど守ろうとしているのか。殺人罪なら人の生命、窃盗罪なら人の財産、監禁罪なら人の移動の自由、強制性交等罪であれば人の性的自己決定。
ここで、確かに安心を守って欲しいっていう心情も分からんでもない。不安感を公が拭ってくれたらさぞかし安心だろう。安全と何が違うのかというと、安全は現実に係っているけど
、安心は個々人の感情に係っていること。感情を基準として何が悪いのかって素朴に感じる人は、かなり温室育ちというか、世界が狭いというか。感情の中身を国とか行政が恣意的に設定できるって、ルールじゃなくて人で国を治めることになる。
セクハラの基準とかも近い。
僕前の職場で同性から結婚しないのか、そろそろ結婚しとけよみたいなことを言われたけど、これも普通にセクハラだと思う。でもこれは僕の感情っていうより、一般的な規範に当てはまらない人に対してその理由を聞きだそうとすることっていう風にまぁまぁ客観的基準にはなりうると思う。
本人が嫌だと思ったからセクハラじゃあ、行動に対する予測可能性が無さすぎる。予測可能性っていうのは、どういう言動だったらアウトなのかが前もって予測できること。同じ言動でも相手によって評価が違うのは当たり前だけど、ここに違法性を持ってくるのは違うだろうなと。
違反しているのは当人の感情に対してであって、客観的なルールではない。まぁ僕はだいたい自首撤退するけども。自分の誰かに接触したいという感情自体がほとんどアウト。日常生活では精神も肉体もかなりパーソナルスペース広めにとっている。ここでは無防備かと言われるとそうでもないけど。
刑法は人を裁くいちばんぎりぎりのルールだから集合知感はある。ニュース見ていると他罰感情とか同情とかしか煽られないだろうけど、自分が犯罪者にいつなるのか分からない世の中になる可能性もある訳で。
まぁ良いや。
僕はいつになったら退場できるのやら。
悲観的であることと行動ができないことは全然相関してないね。ついでに行動を起こそうと考えることと現実化も一致していない。「したい」じゃ遅くて「した」ことを事後に顧みるくらいが人間の通常運転なのでは。
これをアクティブと捉えるかどうかは人それぞれだけど、この行動規範は退場したがりの精神と全く矛盾しない。むしろ何もしなくて良いって動かないでいれることは自分に安心している証左なような。自分に安心できているから、外交で攻撃的になれる。
寒いなぁ。
寒さは孤独感と近い。
言葉を習得するのはその言語圏の思考形式を習得すること、とのことらしい。個人的には思考は非言語でも稼働していると思うけど。
ではおしまい。
みんな暖かく寝られていますように。