真実と虚構

 

 

今日は少し真面目にシンプルな野菜炒めを作った。豚こまなのに細かくないのは何もしなかったけど、玉ねぎとピーマンを同じ幅にちゃんと切ったし火の通りを考えて豚肉の色の変化と野菜の投入のタイミングを合わせた。ちゃんと目を離さなかった。全然違う。あとはしめじとえのきのれんちんゆかりごま和え。ゆかりと塩昆布は人類の偉大な発明品。

 

さておき、昨日の日記を読み返すとなかなか妄想満載だなと思うけれど、全く読み取れないことから構築した砂上の楼閣ともいえないか。読み取った情報から思考筋なんていくらでもあるしそれを正解としているということでもないし。書いていないだけで感情とセットの悲観的な筋の方がたくさんある。例えば、あんまりネガティブなのは書きたくないからやめておく。

 

でも、こういうストーリーを考えてそれに繋がる感情があったとして、結局はどれを選択するかということ。ストーリーは選択できないから、厳密には感情だけど。感情なんてほとんど外には出ないから、なるべく楽しく嬉しい方を選ぶべき。感情で他人は動かせないのであれば、自身の感情で動く必要もない。

 

 

ともあれ。

 

結びつきとはなんだろう。と、深みに潜る前に、代理母の話。これも素朴な親子の結びつきか。医学の発展で生殖機能に欠けている人も子を生せるようになった。生殖機能がある個体同士しか子を生せない世界観だと、子供は性交渉とセットだから夫婦に貞操の観念が結びつくけど、今後どうなるだろう。もしかしたら夫婦であることと性的自己決定は分けられることになるかもしれない。

 

代理母の問題は、分娩=子供という素朴な観念を法的ルールにした弊害。サロゲートマザーとホストマザーがあるとのこと。サロゲートは、夫の精子を提供して他の女性の卵子と受精させる手法で、ホストは、夫婦で対外受精した卵子を他の女性が出産する手法。正確ではないかもしれないから、知識として知りたい人は調べましょう。

 

で、ホストマザーについての裁判では、母親は出産した母親だとして、卵子を提供して子を生そうした遺伝的な母親を法律上の母親としては認めなかった。なかなか難しい。漠然と血がつながっているなら親子として認めれば良いって思うかもしれないけど、それは血が繋がっていることに価値を置いていることではなく、血が繋がっているのが親子親族だって

いうのが当たり前の価値観が在るからでは。そういうのが当たり前のルールの中で生きているだけ。でもこれって、親視点から見たものでしかなくて、子供視点から考えれば血がつながってようが、血がつながってなかろうが、愛してくれればその人が親になるから、あくまで大人のルールという感はある。保護責任とかの話。

 

これを続けていくと保身みたいな殺伐とした話になるからやめとこう。当たり前の観念は危険物だという認識。当たり前で生きるなら、他人の当たり前も同等とすることもセットにしないと具合が悪い。

 

個人的には不思議だけど、僕は少なからず貴方は自分のことを見下していると言われたことがあるから、僕も十分危険物なのかも。借り物の価値観からすればそうだったという自覚もある。どんなに客観的に丁寧に振る舞われていても、結局下に見られているのだろうなという学習。年齢とか、年数とかでそれは決まる。

 

素朴な自分だと、他人はそもそも比べる対象ではないし自尊心の材料でもない。自分の価値は絶対的なものだから、程度が低い人と比べて程度が高いとかいう相対的な評価は何にもならない。

 

で、Twitterで見かけたフレーズなのだけど、人は誰かを変えたい欲求を持っていて、それは善意でもない(意訳)みたいなのがあって、なるほどなと思った。他人が自分に影響されたことをもって自尊心を充足したい。これって正にも負にもなりうる。つまり、自分の価値の為に他人を道具として使用するに等しい欲求。

 

僕が人に影響したくないっていうのは、これを当たり前ということを是とできない感覚があるからなのだろう。これは翻って考えるとある意味サイコパスで、貴方の為にこうしたんだよって言われても何の感慨も浮かばない。義務を返却せねばくらいには思うけど。

 

ここで、僕が割と人から好意を持たれがちな理由が分かった。親とか親族含め、モラハラ

の人とか諸々。自分が影響値を持った人と認識できる人物なのだろうなと。外界に主張できる譲れない価値観なんてないから、自分が僕を変えたって勝手に思ってくれる。

 

ある意味詐欺かなって思わなくもないけど、影響は受けていることに違いはないので。ただ、好意があるから影響されるということでもないというだけ。影響に関しては現実的に生きて居る限りどこからでもある。

 

つまり、変化は日常だから特に価値を置いていないということ。でも他人は変化の価値がまた違うだろうなっていうところで、僕如きに影響を受けて欲しくないっていうだけ。

 

 

最後。

 

これだけは書いておきたい。書けば書くほど書いてないことが増える。というのも、書くためには材料が必要だけど、この材料は非言語世界からの発掘だから。僕が知識を書いていないっていうことはもう知られていると思うけど、こんなの一部でしかない。

 

ここから進んで、世界から観測される情報も別に正解でも正確でもないだろうなということになる。対人で言えば言動ね。発話を正しいとするのはどうもおかしい。

 

想い人の観測される精神状態はなんだか心配だけど、勝手に個人的文章で交流している感はあるなという結びつきを解釈している。まぁ、足跡機能もないし、リアルタイムで読んでくれているとも思っていないけど、良く分からない感覚。ただ、僕がこの人に向けた言葉は全部食べてくれたのだろうなという変な安心感がある。

 

 

むすびつきに証拠は必要なのだろうか。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

輪廻転生があったとして、僕は現世が一番マシだと思っている。色々考えられるから。

 

ではおしまい。

 

良い夢を!

 

 

 

今日は少し真面目にシンプルな野菜炒めを作った。豚こまなのに細かくないのは何もしなかったけど、玉ねぎとピーマンを同じ幅にちゃんと切ったし火の通りを考えて豚肉の色の変化と野菜の投入のタイミングを合わせた。ちゃんと目を離さなかった。全然違う。あとはしめじとえのきのれんちんゆかりごま和え。ゆかりと塩昆布は人類の偉大な発明品。

 

さておき、昨日の日記を読み返すとなかなか妄想満載だなと思うけれど、全く読み取れないことから構築した砂上の楼閣ともいえないか。読み取った情報から思考筋なんていくらでもあるしそれを正解としているということでもないし。書いていないだけで感情とセットの悲観的な筋の方がたくさんある。例えば、あんまりネガティブなのは書きたくないからやめておく。

 

でも、こういうストーリーを考えてそれに繋がる感情があったとして、結局はどれを選択するかということ。ストーリーは選択できないから、厳密には感情だけど。感情なんてほとんど外には出ないから、なるべく楽しく嬉しい方を選ぶべき。感情で他人は動かせないのであれば、自身の感情で動く必要もない。

 

 

ともあれ。

 

結びつきとはなんだろう。と、深みに潜る前に、代理母の話。これも素朴な親子の結びつきか。医学の発展で生殖機能に欠けている人も子を生せるようになった。生殖機能がある個体同士しか子を生せない世界観だと、子供は性交渉とセットだから夫婦に貞操の観念が結びつくけど、今後どうなるだろう。もしかしたら夫婦であることと性的自己決定は分けられることになるかもしれない。

 

代理母の問題は、分娩=子供という素朴な観念を法的ルールにした弊害。サロゲートマザーとホストマザーがあるとのこと。サロゲートは、夫の精子を提供して他の女性の卵子と受精させる手法で、ホストは、夫婦で対外受精した卵子を他の女性が出産する手法。正確ではないかもしれないから、知識として知りたい人は調べましょう。

 

で、ホストマザーについての裁判では、母親は出産した母親だとして、卵子を提供して子を生そうした遺伝的な母親を法律上の母親としては認めなかった。なかなか難しい。漠然と血がつながっているなら親子として認めれば良いって思うかもしれないけど、それは血が繋がっていることに価値を置いていることではなく、血が繋がっているのが親子親族だって

いうのが当たり前の価値観が在るからでは。そういうのが当たり前のルールの中で生きているだけ。でもこれって、親視点から見たものでしかなくて、子供視点から考えれば血がつながってようが、血がつながってなかろうが、愛してくれればその人が親になるから、あくまで大人のルールという感はある。保護責任とかの話。

 

これを続けていくと保身みたいな殺伐とした話になるからやめとこう。当たり前の観念は危険物だという認識。当たり前で生きるなら、他人の当たり前も同等とすることもセットにしないと具合が悪い。

 

個人的には不思議だけど、僕は少なからず貴方は自分のことを見下していると言われたことがあるから、僕も十分危険物なのかも。借り物の価値観からすればそうだったという自覚もある。どんなに客観的に丁寧に振る舞われていても、結局下に見られているのだろうなという学習。年齢とか、年数とかでそれは決まる。

 

素朴な自分だと、他人はそもそも比べる対象ではないし自尊心の材料でもない。自分の価値は絶対的なものだから、程度が低い人と比べて程度が高いとかいう相対的な評価は何にもならない。

 

で、Twitterで見かけたフレーズなのだけど、人は誰かを変えたい欲求を持っていて、それは善意でもない(意訳)みたいなのがあって、なるほどなと思った。他人が自分に影響されたことをもって自尊心を充足したい。これって正にも負にもなりうる。つまり、自分の価値の為に他人を道具として使用するに等しい欲求。

 

僕が人に影響したくないっていうのは、これを当たり前ということを是とできない感覚があるからなのだろう。これは翻って考えるとある意味サイコパスで、貴方の為にこうしたんだよって言われても何の感慨も浮かばない。義務を返却せねばくらいには思うけど。

 

ここで、僕が割と人から好意を持たれがちな理由が分かった。親とか親族含め、モラハラ

の人とか諸々。自分が影響値を持った人と認識できる人物なのだろうなと。外界に主張できる譲れない価値観なんてないから、自分が僕を変えたって勝手に思ってくれる。

 

ある意味詐欺かなって思わなくもないけど、影響は受けていることに違いはないので。ただ、好意があるから影響されるということでもないというだけ。影響に関しては現実的に生きて居る限りどこからでもある。

 

つまり、変化は日常だから特に価値を置いていないということ。でも他人は変化の価値がまた違うだろうなっていうところで、僕如きに影響を受けて欲しくないっていうだけ。

 

 

最後。

 

これだけは書いておきたい。書けば書くほど書いてないことが増える。というのも、書くためには材料が必要だけど、この材料は非言語世界からの発掘だから。僕が知識を書いていないっていうことはもう知られていると思うけど、こんなの一部でしかない。

 

ここから進んで、世界から観測される情報も別に正解でも正確でもないだろうなということになる。対人で言えば言動ね。発話を正しいとするのはどうもおかしい。

 

想い人の観測される精神状態はなんだか心配だけど、勝手に個人的文章で交流している感はあるなという結びつきを解釈している。まぁ、足跡機能もないし、リアルタイムで読んでくれているとも思っていないけど、良く分からない感覚。ただ、僕がこの人に向けた言葉は全部食べてくれたのだろうなという変な安心感がある。

 

 

むすびつきに証拠は必要なのだろうか。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

輪廻転生があったとして、僕は現世が一番マシだと思っている。色々考えられるから。

 

ではおしまい。

 

良い夢を!