影響論

 

 

退行症状。やり直しの気分。どこまでも灰汁の掬い取り。

いや気分はそんなに悪くないけど。結局どこまで自分になれるのか。もっと自由に考えないと。

 

さておき。

 

今日はもっと時短。浅漬けとメインで白菜とキャベツを交代。白菜は煮た方が良かろうから、煮ながら弁当箱洗ったり浅漬け作ったり、サラダのレタスとブロッコリースプラウトをちぎったり。メインは豚肉と人参とえのきで、味つけはコンソメとカレー粉とケチャップ。煮ていたら豚肉が牛肉みたいになった。味はハヤシライスよりもっと単体で食べられる薄味。浅漬けは昨日のレシピにお酢を加えてよりさっぱりに。ザワークラウト感が出なかったのは、鰹節を入れたからか。

 

ともあれ。

 

何か素材を。ヴィーガンっていう現代のベジタリアンがヒュームの話をしていたこと。何かを大っぴらに語る人って思想で固まらないと自分の考え主張できないのだろうか。いや確かに宗教の布教と同じで、他人に何かをするべき、こう考えるのが正当だと巻き込むためには一定の価値観の集合の存在を表現する必要はあるか。こういう思想って、自分がそうだじゃ済まなくて、皆そうであるべきだ、っていうのが含意されている。自分の考えが自分の中で正しいのであれば別に誰かに認められる必要はないはず。ここは断言できないけど、やっぱ認められたいし仲間は欲しいよねと。

 

と、もうほぼほぼ終わった話題なのだけど、ヒュームの法則とは、「である」を重ねても「べき」にはならないという倫理のことらしい。人間が動物を食べることは自然に行われてきたという事実と、人間は動物を食べるべきという倫理は一致しないだっけ。一通りツリーを読んだけどさっぱり頭に入らなかったのは、この主張の隠れた前提にそもそも話し手の「べき」が含意されているということ。じゃあ植物はええんかという話。

 

個人的に菜食中心になっても良いとは思うけど、これを倫理と繋げるのはなかなか厳しいと思う。倫理学は基本的に信じていない。信じていないっていうのは、学問としてなりたっていないじゃなくて、それに基づいて行動したり考えたりしていないということ。

 

痛覚がないから植物ならオーケーっていうなら枠が恣意的過ぎるし、利用っていう括りも雑過ぎる。それよりも、家畜を生産するコストが、人間食べる穀物を圧迫しているとかで良い。人口を賄うための家畜の飼料が赤字ですみたいな。だから動物性たんぱく質は高級品にするべき、みたいな主張なら主観が入ってなくてなんとなく分かる。それ言ったら植物を育てるための水も高級になりつつありそうだけど。

 

僕が倫理とか道徳が嫌なのは、こういう一般論がどれだけ正しくても結局は使う人次第でしかないところ。だから、自分の素朴の感情を補強する為に知識を収集しても意味がない。自己補強には役立つかもしれないけど、これが他人に何かをもたらすことはない。奪うことはあるかもしれないけど。

 

思想って、押し付けることはできなくて、できることとしては、選択肢を提示することくらいなのでは。選ぶのは自由だけど選んだら心安らかになりますよと。営業みたい。

 

 

そうして、捉える枠の話。なんだか関わっている人が哲学的な問いをかけてくる。哲学的な人しか、というは置いておいて。

 

人間好きか?

 

人間の定義は自明なようで、素朴な人でもケースバイケースで捉えているもの。だいたいは生物学的人間を人間とする方向、自分の中での人間は人間と扱うみたいな方向を都合よく使い分けていることに無自覚なように思われる。この文脈の人間は他の人間を容易く見捨てることができる。人間だからといって等価ではない。

 

では、死んだおじいちゃんは人間かとなると、肉体がない自分の記憶にしかない人も人間とみなすし、本当は人間観って一致してない。でも、人間っていう言葉を相手に投げれば、だいたいの共通項があるから、なんとなく自分が遣っている人間って言葉は自明な意味を持っていると思い込める。

 

この問いは、聞き手の中の人間像は確立されていて、自分は好きじゃないけどってかっこが含意されているのかなと読み取った。人間のどこが好ましいと思うっていう問いだと、人間って言う全体集合の中で何処が良いかという話だけど、人間外も含めた世界全体が全集合の模様。おそらく猫の方が好ましいっていう意味も含まれているのかもしれない。

 

人間を定義する意味とは。

全くありません。

 

例えば、生物学的に人間とは括れない存在と意思疎通が図れるようになったとして(AIとか)、交信ができるのが人間だと定義するならば、この存在も人間だし。

 

人間に価値を置くとか、男性だから女性だからとか属性を気にするとか、少なくとも精神的な世界においては時代遅れかな。造形的な美として、人間の中では異性の方が目に入り易いというのは現実的にはあるけども、その美は所有できないしね。

 

 

やれやれ。

 

最後に、どうでも良いけど次の休みにアヒルを見に行こう。サムネで使っている所。言の葉の庭っぽくて良い公園。公園というには池の面積の方が広いのだけど、良いところ。ぎりぎり徒歩圏内だし。

 

では、世界がほどほどに満たされますように。