試行

 黄身のような満月を見上げる帰り道、卵が切れていたのを思い出した。なんて、タイミング良くはいかず、実際はスーパーでレジをしてもらう直前。反射的に動けばまだ買えたけど、ピーマンも買っていたし、キノコもあるから大丈夫かと思って動かなかった。タンパク質は鰹節で補う。ともすれば昨日の日記の復讐のような出来事。今朝起きてお弁当のご飯をよそおうと思って予約していた炊飯器を見ると、蓋が開いていてごはんが干からびていた。全部廃棄処分。やはり想像していないことが起こるでしょうと誰かに言われた気分だったけど、厳密にカウントしてみると、1%くらいだから、それほど珍しいことでもない。10年ぐらい使いっぱなしだし、自分が蓋を閉じていなかったことも考えられる。ショックだったかというとそうでもない。不感症。

 不感症と言えば、大学時代の友人から連絡が来ていて、生きているなら反応しろとのこと。どうも反応する気がしない。元気やで、と返せばそれで済むのだろうし、向こうも納得はするのだろうけど。まともな社会性がどんどん欠落しているとも言えるし、世界観というか死生観が素朴になっているともいえる。社会性には関係している人の気まぐれなボールをぱんぱん跳ね返していくこともきっと含まれる。

 けれど、そもそも人が生きているかどうかって、相手が生きていることを自分が認知できることなのか、という素朴な疑問。いやもちろんそんなことないと思うよ、自分が認知できない時でも相手は相手の生活を生きているって認識はある。ではなんで生存確認をするか。生きていれば自分に反応があるだろうという関係があるから。関係の外においては、生物学的ないし社会的人が生きていようと死んでいようと知ったことではない。知れば諸々の感情は起こるだろうけど、それはそこで関係が生じているからだろう。僕はどうもこういった関係=生みたいなものが薄くなっている。幸せになってくれていたら嬉しいなとか、生きていてくれてありがたいなって思う人はいるけど、生存確認はしなくても良い。見られるところに生があれば確認はするけど、ここに交信は含まれていない。お互いがしたければすれば良いとは思うが。

 それでも、返信しない自分に何か変な気分はある。悪いなと思っているなら返せば良いのにとか、返した後に今まで返してなかった非を責められたら、自分が悪いとかしか言えないからなかなかエネルギー消費するだろうなと普段はしないエネルギーの逆算をしているし。だからとて、たぶん返さないだろうなと思う。もっと他に時間と精神使ったらええよというか、もうその観念の中では死んだ者としてくれというか。こういうのは病んでいるというのかな。

 死生観。日曜か月曜だったかに、残っていたトリックアート館の画像を全部削除した。残しておいても問題ないと言えばないけど、なんとなく悲しくなってくるから。どうしようもない悲しさに浸るためには良いアイテムだったけど、生霊みたいに何か影響しても困るし。祈りに作用があるとすれば、こういうのも作用があるかもしれない。記憶という化石館の展示品は満載だし、生生しい生としては幸せに生きてればいいなって思っている。勝手に。

 化石館。かつて関係があった人達は、通り過ぎたら思い出として固定化されるけど、自分の世界の外で生活を営んでいる訳で。この人達を人間とするかどうかは結構難しいのではなかろうか。自分を傷つけた人が今を生きていることをどう捉えるかとか、最中は幸せだったとしても離れたら無関心とか。関心を生じない人も生活圏であれば人だろうけど、生活圏の外に居る関心が生じない人全員を人としていたら心身がパンクする。関係の定義も難しいところ。お風呂時間の最後の本では、関係が人間を汚すのだと言っていた。ここでいうピュアとか汚れっていうのは、いい悪いではなくて、おそらく一貫性ということかと思う。一貫性をもって人と関係するのは不可能に近いのでは。関わる係り。対象が前提になるというのが最低限の意味か。ここから距離とか頻度とか類似とか諸々の要素が人それぞれに付加される。

 原稿用紙のように書いてみたけど、きっとなかなか読みにくいだろうな。個人的には縦書きで書いてみたいところ。でも文章脳がぶつ切りになりにくくて書きやすくはある。そうしてそろそろ時間もないので終わりかな。

 

 皆さんが暖かく寝られますように。