感知

 昨日の後編は途中で寝落ちした。いや、嘘。ほんとは誤字混じりで書ききってしかも一か所だけに貼っていた。起きてからぱっと見で消したけど。なんというか、言葉が生生しくて。失言じゃない、本音過ぎる。オブラートに包んでないから、言葉の機能をむき出しにしたもの。あんまり良くはないと思うけど。相手を自分にとって利になるものにしようという意図はないけど、相手を掘り下げたくなる。これは何感情なんだろう、恋愛とも近いけど、恋愛はそうやって掘り下げて得たものは遣うこと。僕は遣う気がない。ただ知りたい。だから質が悪い。

 昨日の日記の本音だだ漏れは、まず、僕より大事なものが在る人との関係が楽だなと書いていた。確かに、浮気相手になったことは何度かあるし、気楽ではあった。問題は、そこで僕が得るものがほとんどないこと、楽しいけど、男女関係においてまぐあいにあまり価値を置いてない者としては、特に意味がない。まぐあいは疲れる。慰めるときにまぐあいを想像するのは有りだけど、実像とは違うし。実像は実像で良い物だけど、最中は皆動物だ。あれ、今日も本音駄々洩れか。

 人の定義を諸々と考えてきたのだけど、なんとなく見つかった。これは現実世界の経験ではなかった。現実的な人間論は、おばあちゃんの知恵袋的で良いけど、結局はその人が接してきた生身の人間が蓄積されているものだから、自分に引き直せない。僕はもっと個々の人を見たいし人に芽生える感情が一般化されるものとは思えない。人に対する感情はもっと生生しくあるべきで、抽象化してはいけない。

 人の定義。「ことばと意味」で見かけた言葉だけど、人は本質的に表現的だとのこと。これが人の定義だと思った。感情とか挙動とか内側の話は知ったことじゃなくて、外に出る表現が人。パスカルさんの考える葦説も良かったけど、人ってそれほど考えてないのだろうなって思ってきている。この話はまた後で。あと、憲法学で、表現の自由を何故守らないといけないかという話で、人は情報の動物だ。だから、情報はなるべく世界に流通しとかないといけない。これはほんとにそうだと思う。情報が人格を創るし。

 要は何をもって人なのかというと、自分の挙動が表現になるというということと、表現を受け取ること。表現できるのは今の所人しかないし、表現を生活と直結しない形で収集できるのも人しかいない。生活の為であれば、それは動物と大差ないパブロフの犬的な学習。

 あと、昨日の日記で書いていたのは、関係におけるメリットデメリット。関係を継続する動機って、強制じゃない限り、相手が自分にとって利益になるみたいな合理的思考が働いてないかなという問題提起から。この利益は物理的なものよりもっと広い。例えば、交感神経優位な今の世で、副交感神経を優位にさせてくれる人物は、かなり希少だから、現実的な対価がどれだけあっても維持すべきではある、というような。

 だから、なんでだろうーって。僕はここに自覚的。というところで見ると、自分に自覚的な人って全人類で見ても1%より少ないんじゃないなかって想像する。情も愛着も確かに大事だけど、結局人は自分が一番大事だし。自分が生きていないと大事か大事じゃないか分からないし。

こういった欺瞞はなんというか、宗教的。誰かの為に生きるべきとか働くべきとか。

 

あと、声の話も書いていた。物理的な発話って、自動的だと思っている人も操作的だと思っている人もいるだろうけど、声も表現物で。声の音色って、独特。かなり自動的ではあるけど、個別的な声なのか、一般的な声なのかというのは分かる。まぐわいの唯一の利点はここ。ただの声フェチ。

 

自分用の言葉を使ってくれる人が好き。

 

んで、僕もその人専用で遣っている言葉が好ましい。

人一般に流用できる言葉の何が面白いのか。

 

まぁそりゃあ自分を基準とすれば全人類他人だから、そういう一般的な言葉の方がメリットはあるに違いない。僕は二度と使えない言葉としているけど。

 

 

もっと皆生々しく言葉を使えば良いのに。

 

 

おしまい。

 

 

皆さん暖かくして寝なさいな。