守る強さ

 帰る間際、要注意人物とされている人に当たって嘘つきだ、努力不足だと罵られながらちょっぴり残業。しかし、思ったよりは応えてない。なんというか、確かにもうちょっと聞き方あったかなと、怒りに任せて言われたことからあさっての方向で対策を考えている。割と頻繁に怒る人らしい。まぁ精神的には随分と耐性付いてきたかなという自己分析。ただし、身体が学習してきた反応はなかなか拭えないなと。手はなんとなく震えていたし、発話の反応もおぼつかないし。まぁ、もっと耐性つけたいから定期的に当たらないかなとまで思っている。所詮録音されている環境のことだから。

 怒りって、個人的に疎通の手段としては低次だと思っている。何が低次って赤ちゃんからできることだし、自分より上にはできないし。対等であれば怒れるっていう場合は、なんというか媚びっぽい。相手を自分の支配下で制御する手段としてはインスタントで良いのかもしれない。支配下にされた学習のたまもののこわばった体で罵倒を聞きながら頭の片隅で、この人ってやたらと他責にしてくるなぁと冷静に考えている部分があった。これだけ他責にできるって凄く自己肯定が強いのかなぁと思ったけど、もっと冷静に考えるとむしろ逆かなと。自己肯定感が低いがための防衛機能か。責められる前に責めてしまえというように。語彙の中に、あなたと話したくないから、時間をつかいたくないからと、○○したくないという言葉が出てきたけど、仕事で感情論を語られてもなぁと。無駄に怒らせた僕が悪いという感情なのだろうけど、原因はどうあれ怒りを表明すると決めたのは当人だからなぁと、他人事的感情論。すっきりできたなら良き。そんなことなかろうけど。

 まぁいいや、全然気分は害されていないので。ただ、身体反応のせいなのか砂糖とポッカレモン買うのを忘れた。ポッカレモンはコンビニで補充できたし、スーパーでは毛穴解放促進剤こと入浴剤買ったから問題なし。

 さておき。今日は寝すぎた。心当たりは、某ブログをぱらぱら眺めていて、「人間関係なんてない」ってタイトルの日記というか、思索を読み返したこと。やはり好きな文章だと思いながら、なんとなくごく局地的に腑に落ちるところがあったこと。何処にもいかないというのは希望もないけど絶望もなくて、なんとなく自分が望んで来たことかもしれないとか。そうして1年前の自分がコメントをしていて、やはりお前もこの文章好きなのかと。血は争えない(遣い方違う)。でも、こうなってくると、もはや性嗜好的マイノリティをぶっちぎりに突き抜けそうな問題提起が出てくるのだけど、これはまぁ良いか。

 望みと祈りの個人的な定義の個人的な違いは、前者が主観の利益のため、要は利己的で、後者が対象に自分が含まれていないこと。これでいうと来世で救われるために祈るのだっていう礼拝的なものは望みになる。

そうして、寝る間際にいくつか考え事の切れ端をつかんでいたのだけど、一個だけしか今手元にない。人間は何を表現しようと自分のことしか語れないのではないかということ。伝聞形式のコピペだって、自分がそれを選んだっていう表現だし、怒りの表現も当然そう。怒りについては昨日考えたことを現実化してる人が居てなかなか。言葉の塊ないし行動は、現実化すると当人から離れた独立したものとして評価の対象になるけど、当人から見れば、どこまでも当人から離れることはできないという救いなのか呪いなのか良く分からないものめいてくる、というだけ。

ではおしまい。

 

皆さんが安らかでありますように。