価値選択

 やっと砂糖を買ってきた。ついでに塩も。塩は瀬戸の粗塩で砂糖はキビ砂糖。買ってきておいて砂糖は使っていないけど。砂糖はめんつゆが要るときに使う。気滞について調べていたら、ガスが溜まるときは米と豆を控えた方が良いらしい。毎日米も納豆も食べているし、豆苗はどうなのだろう、採りすぎか。休みの日は麺類たべよう。気の巡りを良くしなければ。

 さて、なんとなく力が抜けて、すげー寝た。思った通りに入眠して7時に目が覚めたけど、圧倒的な眠気で二度寝に落とされた。寝すぎて眠いというより、気が抜けている。良い意味で。寝すぎだと思ったけど、本当は体が寝足りてないのかもしれない。7時間だとロングスリーパーという程でもないけど。確か一番死亡リスクが低い睡眠時間。これくらいの余裕が必要なのか、どうなのか。

 気滞の精神傾向として、鬱傾向とか攻撃的になるとか。あと血虚が解離性とか。まぁなんでも良いけど完全に一致とはいかないよな。人の体も自然のように移り変わるというのが東洋医学の考え方だし。あと、気滞の人によい行動療法で、あまりルールに縛られずにゆっくりした時間を持つというのがあった。ゆっくりしてどこかにたどり着くなら良いけど、自分に安心できるようになって何処に行けるのかと思ってしまう。肩こりとかは解消しとかないと面倒だから食材には気を付けるけど、料理も文章も読書もルール付けでやっている訳ではないという。ノルマとかじゃない。で、唯一緩めそうなのが睡眠時間だろうなと。入眠用のブログを読み返すとすぐ寝られる。読んでいて思ったけど、当時4年前くらいの作者さんに恋と似たような感情を抱いているなと。今でも当人でもなく、当時の文章から輪郭がぼやっと浮かぶ人格へ。死んだ人間が更新なく固定化されて強い心象になるように。

というところで、僕はあまり生身には興味がないような気もしてきた。直に触れたとしても、何段階か媒介がある気がする。媒介についてはまだ考えていない。

今日は日中全然考えられなかった。ちょうど良く時間が空かなかったというのもあるし、時間が空いても思考が回って行かないという。新規情報が入って来ない空間で既存の情報だけで組み立てるというのは思った以上に頭を使う。まだまだ使っていなかった。これに慣れたら次にいけるかしら。もっと脈絡ない脳内世界が繰り広げられる所まで。

寝る前にはなんとなく不穏なことを考えていた。人が他人を大事にするのも自分の為だよなと。大事には守るというか保護が含まれているから、どうしても相手の行動を制限するし、自分の行動も制限する。まぁそれが私的な関係だと言ってしまえばそうなのだけど、これって相手を相手のまま尊重するということとは両立しない。相手をどこか自分より劣っているという無意識があるのではないかという問題提起。もっと根本的に、大事にするためには相手に生きていてもらわないといけないから、相手を生存に縛る。いや、命は大事だという見解も分かるけど、死後を誰も知らないところからすれば、死後はむしろ安らかかもしれない。生まれたことが当たりだっていう考えはもしかしたらこっち側の論理でしかなくて、あっち側ではこっち側に来る人に数十年の苦行外れだけど頑張って来いよ、みたいなことになっているかもしれない。

意思より命の方が大事としている。いや、成熟した人格は命を選択するという思想なのか。

ただ、緩やかな死への加速は意思だったりしてなんとなく恣意的な基準がありそう。そうして、尊重の最終形は相手が生きようが死のうが存在そのものを認めることなのではと考えた。自分が相手と関わっているかどうかも無関係で、ただ相手の存在を認識し続けるということ。でも、これって現実的な振る舞いとしては自分の生活圏の外に居る人に対するものと変わらないから、無関心と同じことになるような。違いは、当人の頭の中にだけある。

というところまで考えた。大事だと言いながら選択を絞らせようとする精神構造を考えていたら、こんなところまで。でも、漠然とした命に価値を置く方が無難ではあると思う。

ここまで。では、良い夢を。

 

皆さんが自由な選択をできますように。