夢か現か

 土日はぼろぼろ。いや、寧ろ素に近いのか。二日酔いはないけれど、色々緩い。漫画アプリで金色のガッシュベルが読みたくて、アプリで3500レベルを土曜日にこなそうとして、ふと日曜日の朝我に返ってアンインストールした。課金が前提だし、無課金でやっていたらおそらく無料分で読み終わる。もう終盤だし。

 土曜の夜は赤ワインを飲んだ。これは東洋医学の本でアルコールの中では良い物だったから。良し悪しが分からないから、山梨県で作られている防腐剤が入っていないのを買って見たけどほぼぶどうジュースだった。なんとなくチーズは食べたけど、文章は途中で尻切れトンボ。頭の回転と相性良くない。というか、酔いと文章も不可分ではなくなったな。平日特に要らないや。依存じゃなかったとしたらなんだったのだろう。意思か選択か。

 日曜日は昼間に髪を切りに行ってきた。2人理容師さんが居て、いつもと違う人だったのだけど、なんだか完成形が気に食わない。何処が違うのだろう。いつもよりやや長いというか、形が悪いというか。指名制じゃないから運だ。

土曜も暖かかったけど、昨日も暖かかった。他の人たちが冬用装備の中、Tシャツにロンティー重ねるだけで充分。

 さておき。思考は心を重くする。悪い意味ではないけど、なんだかずっしり。法学はもちろん、哲学も面白い。分析哲学が手つかず本棚に残っていたから読んでみているのだけど、内容が濃い。知っているという概念を分析するところで刑法に出てきたゲティアーさんがまた出てきた。ささいな誤り以外の誤りを前提としない認識が知っているということだ、とのこと。さっぱりだと思うけど、読んでみると少し分かる。まぁ哲学者が発明した概念が日常用語に流れてきて、それを自明のものとして使用しているのだろうな。認識とか意識と理性とか。でも、こういう本は自分が自明だと確固たる認識がある人じゃないとなかなか混乱する。僕がそうだから。ヘーゲルさんも自分が自分であるということを認識するとはで、自己自身とかそれ以外を包摂するとか、歯ごたえが凄い。自己意識も哲学者の発明品なのか。発明品っていうのは存在しているかどうかというより、それを文字で表現することに係っている。

 そうして、法学、特に民法だけど、なんというか良くできたシステムだなと。民法はざっくり言うと、私的自治、つまり自分で自分の法律関係は自由に決められるという建前を中核としている。そうして法律関係を成立させる法律行為というものがあり、法律行為の中核には意思表示がある。意思表示は、自分が欲する法律関係を求める意思を表明すること、つまり現実的に言動すること。これって確かに意思が先にあってそれが言動として社会的に現実化するのだっていう素朴な認識がある人からすれば、納得ができる捉え方だけど、僕はどちらかというと、内心は言動の後に言動を評価して生まれるものではなかろうかというほうがしっくりくる。だからこそ、見える言動しか外からは基準とできない。

 これを素朴な人間観にもってくると、習慣や惰性の外へ言動が向かうときや、何か意味がある選択をするとき、その前には自分の意思があるとするか、その現実化はたまたまと捉えるか。なんとなく前者の方が多数派のイメージだけど、僕は意思が自分の現実を変えるエネルギーがあることに凄く懐疑的。意思は動機と同じように、後付けのものではないか。まぁ認識は変えるかもしれない。あれを知っていたら自分は言動を変えたということはきっとある。ただ、これも後付けで、認識の量は過去に向かって増える訳でもない。

 ここで思考はどうなるだろうと考えると、思考は惰性とか習慣とか自分に積み重なった時間から一番離れやすい。思考が現実化する法則が一時期流行ったけど、こういう意味なのかも。思考を論理的に表現するなら、自分が言動の基準としている自己の中で自明とされている前提を疑うこと。○○なときは△△だから、自分はこれをするという言うときの△△の部分。疑うだけで良いのかだけど、△△の部分で、まさに自明な自分自身のところなので、疑うだけでかなり大変だと思われる。疑ったところで特にいいこともない。

 でも、自分の感情を表現した言葉の中身を分析しようとするときは、なかなか役に立つ、かも。具体的なその言葉に込められている自分の感情はなんだろうって。まぁ別に外から見られるときは言動や振る舞いで評価されるのは当たり前で、そういう風に自身も捉えるというのも1つの手ではある。

 こういう話は、人、特に自分は自分にとって自明な存在かという、考えようがないところに落ち着くから、結局のところ思考の道筋の違いでしかないとも言える。つまりこの文章にも特に意味はない。

 おしまい。               

 

 皆さん良い夢と現実を。