どこからどこまで

 昨夜は全然寝た気がしなかった。考え過ぎか。別に精神に影響がある思考は、、、悪い意味ではしていない。そうして今日は頭が全然回らなくて、無駄に焦燥感。自分はもう詰んでいるのではないかって。まぁそんなこと言い出したら生まれたときからそうだったような気もするし、今さらではある。でも、焦燥感は無駄だ。寝れば戻るか。

 さておき。なんだか定期的に思う。僕の文体は本当に自分のものなのか。良く分からないけど、どれだけ自分の言葉を追求しても、これは自分のものではないという気がする。というのも、前の日の自分の文章すら他人事になるから。まぁ言葉の中身は自分という気もするけど。何のこっちゃ。頭沸騰中。

 うん、ヒトには肉体と精神があるけど、どちらがヒトにより近いのか。こんなの分析しても仕方ないけど、肉体は物理法則から逃れられないし、精神は肉体の檻の中で、ヒトはその中間くらいに存在しているのだろうか。中間というより、ぼやっともう少し外側か。亡くなった人もヒトだし、文章に含まれる精神もヒトの一部ではある。魂の存在について言及しようと思っていたけど、ここまでで何と表現するかは別として魂のようなものについては素朴に認識されているのか。

 ところで、ヒトはなんでヒトを求めるのだろうと考えていた昨夜。忘れられたくないっていうところにも通じているのだろうなって。クオリアの話で脳科学者の茂木さんが書いていた脳科学的な現実とは何かっていう話が好きで。五感の複数が一致することで現実と認識しているってこと。見えているものが触れるし、嗅いだものが味わえるというような。夜見る夢が現実とされないのは、五感の感覚が薄いから。これと繋げると、自分で捉えた自己の存在を認識する他者が複数存在することで自分が確立されるという無意識があるのではとか。他者に忘れられたくないというのも、自分の存在が他者の中にあることで自分の存在が確固としたものになるという無意識。危険から身を守るための本能からは随分と離れているような。これがどういった感情として言葉化されるのかというのは人それぞれなのだろうけど。

 こう考えていくと、自分の存在がほんとうに自分の中だけにしかないのかという疑問に至る。自分嫌いの人にとってはうすら寒い話だけど、こういうところから魂のような肉体とか精神の檻から離れたものの偏在性の観念ができたのかも。そういえば、僕は観念と概念は使い分けているけど、どう違うか言語化しようとするとバグる。両方とも現実に形を持たないものだけど、ニュアンスの違いを把握できていない。まぁ言ってしまえば存在自体も現実に形を持たないか。自分の肉体は存在しているように見えるけど、存在を直接認識している訳でもなく、知覚のフィルターを通した自己像の肉体を把握しているだけだろうし。とい言い出すと現象学っぽい。

 でも、じゃあどこにもないのかって結論付けると、ともすれば全部無駄ではないかということになるから、暫定的でも自分は自分としておかなければならない。なんて考えるまでもなく、自分は自明だろうってことになるだろうけど、僕はそうできないからある意味詰んでいる。肉体的自分と精神的自分と魂的自分はどこまで自分でどこからが他人と交わっているのか。抜け落ちた髪の毛は自分ではないし体液も自分の外に出れば物体ではないし、あの時はたまたま虫の居所が悪かったから普段の自分と精神状態が違ったと評価するとき、当人の中での自分像からはやや離れている。誰かの頭の中に住まわせてもらっている僕の心象ははたして。

 こんなこと考えているから寝られなかったに違いない。今日は肉体的自分に寄ってもっとふわふわしたこと考えよう。おしまい。

 

 それでは、皆さんふかふかな夢を。