ハイテンション(前

 金曜日が一番元気。次の日休みというのもあるけど、一番は、平日のリズムにやっと調律できる模様。スロースターターというより、今までの蓄積。日光は良いけど未だによそ事みたいな感じがする。夜時代長かったからなぁ。

 昨日の夜が睡眠時間長かった。多分ここのところで一番の睡眠だったと思われる。睡眠というのはこういうものか、なるほどと思ったことがあって。仕事で毎日入力しているはずのIDを思い出せなかった。僕はあまり記憶力を重視していないけど、びっくりした。毎日使っていて、思い出すまでにタイムラグがあるとは。でも、睡眠って脳にインプットされた状態を整理する時間だって言う。つまり、変な話、睡眠って人格のリセットなのだろうなと。その整理は主観で取捨選別はできない。覚えていたいとどれだけ願っても脳にとって有意な情報でなければ容赦なく切り捨てられる。脳にとって、使う回数が多い情報って優先順位が高いはずなのに切り捨てられたということは、脳への調教もうまくいきつつある。

 ともあれ、こうやって主観とは別に睡眠を隔てて情報が脳のエゴで交通整理されているのだとすれば、睡眠を隔てたヒトって厳密には同じヒトではないよなと。これが主観として実感できるのは深酒した次の日なのだけど、そのうち整合性保とうとするから、なんとなくやらかした日で終わる。アルコール有意論。

 定期的に見たくなる「言の葉の庭」でもなくて、という、人格が睡眠で微妙に変わるのであれば、統一的に相手を見ることは失礼に当たるのではないかと思ったけど、そこまで自分を把握している人は居なかろうと思う。僕は別に統一的に見られても良い。見ないヒトを選ぶだけだから。「人間なんてどうせみんなちょっとおかしいんだから。」雪野先生の言葉。先生がそんなこと言っちゃいけないだろうとは思うけど、このだいたい平均寿命の中間くらいに至って観測するのは、それほどヒトって大人ではないのだろうなということ。大人の定義が、世界に自分の位置を確保してそこを守るということなら、だいたいの大人は大人だろうけど。大人ぶれることも満たしている人も多そう。まぁ良いや。

 大人の定義として、外からあまり影響されないというのもありそう。いちいち影響されていると生活が保てないという意味で。という感じで今日の鍋の美味しさの話へ。今日はトマト鍋と決まっていたのだけど、昨日入眠用のブログで乳製品のことが書かれていたから、クリーミーな方向に味付けがぶれた。出汁はコンソメほんだし、カットトマト缶、少しだけ醤油とウスターソース、あと、ブログでバターがやたらとリスペクトされていたから、残っていた固くなった無塩バターを小さじ半分くらい。食材からの出汁はきのこと鶏モモ肉から採って、食材は白菜、キャベツ、長ねぎ、厚揚げ。控えめに言って、誰に食べて貰っても大丈夫なくらいの完成度。締めというか明日はリゾットでも絶対美味しい。

 あと、料理の話もあって、味覚音痴じゃなければ時々作った料理はおいしくて当たり前っていう説があって。僕はいまやこんな感じだけど、その当たり前って、かなり恵まれていると思った。キッチンに入ったことなくて初めて独り暮らしした男子大学生(当時)の証言。最初は食材を切って味が決まった調味料から始まる。晩酌のおかずを自分で作るっていう衝動から始まらなかったらここまではなかった。つまり、僕は未だに料理を生活の手段としていない。

 

 大人の定義として、世界を手段とするっていうのもあるのかも。知らんけど。前編終わり。