後編

 連絡をしてもしなくても良いって言ってくれる人にこそ連絡ができるっていうことはないだろうか。と問題提起みたいにしているけど僕の中では自明なこと。定期的に連絡しろよって、人を人として見ていない所業。いや、理屈としては分かる、情とか愛着とか心配とか。でも、この感情って相手の主観であって、相手の主観はどうでも良くしているよなと。

 僕はこういうのに巻き込まれた時に自分の性質を天邪鬼だと思っていたのだけど、微妙に違うと思った。僕は決めつけられたら決めつけるし反発するけど、放っておかれたら稼働率が上がる。貴方は貴方のままで良いって言えるのは、普通は無関係なヒトしかいない。迷惑を被りだしたらそんなこと言ってられないというか、そうなってくると自分が相手に使用されているということになるから、自分を守る方向に働く。そりゃそうよ。自分は守らないといけない。

 でも、だいたいの人は、そうやって主観的に他人を使用することが、他人を想うことと等しくしている。いやこれも分かるし、僕もずっとやってきたから。でもこの感覚って、ナンカヘンダーヘンデスヨ。僕は恋人という枠の人が決まれば、他に目が行ったとしても何もしないということをやってたけど、これって、恋人さんが大事だっていうより、恋人っていう概念に対する自己規定。だから人の恋人規定はその人であって浮気相手になっても問題ないとなる。フリーになったら恋を振りまくから質が悪い。余計に質が悪いのが、性欲の解消のために振りまいている訳でもないということ。女性にも性欲はあって、そこを満たさないことで振られることはままあった。性欲の交換が恋人関係だとしたら、もう恋人関係を構築するのは無理な気がする。何に価値を置くかという話。

 そういえば、歴代の恋人さん達の何人か、僕が生活圏ないし精神圏の人達から個別的に好かれているだろうって断定して気にしていた。そんなことあるかいなって思ってたけど、ある意味では正しいと今や思う。現実を言葉で定義したときの誤差の話。例えば、自分が誰かを好きだと感じたとして、その言葉の中身を吟味することって大人は誰も教えてくれない。言葉で感じたものは結局生活に還元されるのだというところで、愛も好意も意味は分からないままで一生過ごす。何故かって、すべての感情が自分にとってどうであるかを前提としているから、自分と離れた相手を相手の人格とはできなくて語義と離れる。

 変な話、僕の家系というか、姉と妹を観察していると好意を集める心身なのだろうなって思った。要は選ぶ側。でもその上位の母親に選ばれたのが僕だったところが気に食わないのだろうなっていうところで、家族とは個人関係として話ができることを諦めている。家族だから省略できることなんて今の観測だと皆無だし。

 僕とパートナーになれる人が存在するとすれば、僕と同じくらい変化している人というのがまず。でも、人の自転なんてそれぞれだからここはない。あとありそうなところは、僕のことをどうでも良いと思いつつ関係してくれる人。この文脈で接してくれている人は僕のこと好いてくれているのだろうなって感じる。感じたことが実際違いますよって言われても別にがっかりは全くない。僕の観測値は暫定でしかないから。暫定から外れてくれる方が楽しい。

 生きていることはなんと楽しいのだろう。色んな人に会ってみたいなっていう衝動がきっと自分。ヘーゲルさんも自己意識とは「欲望」だと言ってた。

 

欲望の定義はそれぞれ考えてくだされ。

 

おしまい。