自在

 

 

感情の推移を観察して色々解釈が錯綜するのは不謹慎だけど面白い。どれが素朴な自分でどれを外に出すのかはあんまり関係ないなと。

 

 

今日はがっつり二度寝した。自分の脳に苔が生えている夢。思考がこびりついている暗喩なのか知らないけど、なかなかグロテスクだった。頭痛の明喩なのかもしれない。頭痛とは無縁だったはずだったのにいつの間にか仲良し。別にこの痛さが生活を害することはないけど。歯痛が起こったら耐えられないけど。

 

あと、昔飼っていた、全然しつけができてない犬が出てきた夢。田舎レベルが高い家だからワイヤを張って、そこに縄を通していたから移動できる範囲がめちゃくちゃ広い。にもかかわらず散歩がめっちゃ好きだった馬鹿犬。もっと可愛がれば良かったけど、最後は悲惨なことになった。この犬と妹が登場して、妹が犬に噛まれて腕が折れたって騒いでマスコミも騒いで、でもこれって折れたのではなくて腕が抜けただけだろうと思っていた。何の示唆かはわからん。

 

あとは官能的な夢。登場したのは想い人でもない誰でもない人だった。これに至ってはまぁ物理的な温度が足りないのだなぁというだけ。性欲自体は自己処理できるから問題ない。

 

さておき。

 

劇評のレイアウトがメールでやってきた。肩書をちらっと見たら演劇界隈の人ばかりっぽくって、これはこれで単なる会社員が匿名的で良き。相対的に。まぁ生活の糧になるものではないから、何かの延長線なのかもしれない。僕は全然関係ない原動力だけど、考えた比重では負けていないと思う。それもあんまり関係ないけれど。

 

ともあれ。

 

自由かって気ままな精神状態とはなんぞやということが素朴に分かってきた。やっとだわ。

素朴な感情は、関係性とは全く関係ないということ。

 

順を追うことも関係ないのだけど、一応。

 

想い人がいちゃいちゃに見えるつぶやきを書いていて、それに対する感情の推移。まず悲しいなって感じて、ふぉー脱力感だったけど、浸透すると感情が変わってくる。こういう開示をしないように気を遣ってくれていたのではないかというじわじわ気分が悪くなった。全く関係ないかどうかは関係なくて。あくまで主観的な観測値だから。誰かが自分に気を遣ってくれる関係って嫌だ。

 

そうして、この前後でこの人に対する好意の総量が変わったかというとそんなこともなくて。相手が自分を想ってくれて物理的に費やしてくれることが条件付き好意だとすれば、ただ無関係に好きだというのが無条件的好意で、無条件的好意がメインだから、むしろ幸せに生活していることは良きになる。

 

では、なんでっていう疑問符も全く関係ない。

 

相手が自分に表現したことなんて無関係の主観値で生きるとは。

 

例えば、僕はいま主観で物理的移動に飢えているから、明日何処かに行きたいなって思っている。そんで、先着一名で僕に会いたいって言う人が居ればそこに向かっても良いなって思う。会うとか関係なく、個人的に行きたいのは松本城か京都の丸善。でもこんなのも、誰かの基準ではない。今ここに居るんだけど、今日どうですかっていう人の日常をぶっ壊す奴。

 

解釈の錯綜の話で言えば、想い人がパートナーとの添い寝トークを表現したことは、ストレートに捉えれば貴方とはパートナーにはならないよだけど、そんなことはもともと在ったのは知っているから、それでも嬉しいのは何でだろうって。こういう微妙な機微が面白いよなぁって。

 

解釈なんて結局方向によって全く反対の現実になりうるわけで。ならないと思える人は、ちゃんと自分を生きているから良き。自分を生きるって、自分の解釈を正当とすることから始まる。

 

僕は正当化して生きてたかことの正当化が外から来たものでしかなかったなと思って、再解釈している。素朴な自分の感情とは何ぞやって。

 

解釈の意味も解説した方が良いのかな。

解釈というのは、世界から読み取った対象を、自分の中でどう飲み込むか。飲み込み方がひとつしかないことはとても良き。

 

僕は穿っていくと最終的に誰とも生活できないのだろうなと感じていて、でも、これで良いだろうなとも思っていて。

 

こんな僕と生活してみたい人手を挙げてみてーとかって。絶対的に需要には応えられないけど。

 

概念で生きたいのに現実も求めるっていう矛盾がなんとも人間だ。

 

まぁ人間ですけど。

 

自由の定義は明日自分が何を感じているかは自分には分からないということ。

 

では皆さんが不自由でありますように。

 

おしまい。