思考の坩堝

避難所

循環論法

暖かくしておくように言っておきながら、自分は朝方に寒すぎて目が覚めるという。背中が寒くて起きるなんてなかなかない経験。仰向けに寝ていたのに。一日中体温が上がり切らない感じ。芯が冷えるとなかなか戻らない。今日は少し厚着して寝て、週末には毛布でも買いに行こうかな。

 今日はこんな感じだから、特にない。という訳でもなく。悲観と楽観について考えていた。気分じゃなくて想定のこと。楽観的に考えるというのは突き詰めれば自暴自棄にも近い。旧来の自分の外について考える訳で。まぁこれはベースが悲観にあるからかもしれないけど、楽観的突拍子もない発想が出てくると、出てくるのは良いが、それに基づいて行動するのはやめておけよと。気分によってどちらが出てきやすいかというのはあるのか。でも、どちらにせよ行動とは関係ないな。

 しかし、体に熱がない。いつもようにお風呂読書で毛穴を拡げてきたけど、芯まで来ていない。これは毎年末恒例の風邪かもしれない。去年は確か引かなかった。橿原神宮行ってきたし。風邪は時々引いた方が良いから問題はない。風邪を引くとなんとなくプリンと肉が食べたくなる。あと物理的人恋しさ。今の段階では今日暖かく寝れば問題ないと思われる。

 悲観の流れだけど、ふと、何も考えずに生きられたら良かったなという言葉が頭に浮かんだ。何も考えずっていうのは現行の社会規範と価値観がぴったり合って、時系列でありがちのイベントがあって、そうして死んでいくみたいな。こういうのは即座に反論して否定するのだけど。ぼーっとしていると頭の中で言い争いが始まって、それを観戦している僕はどっちの肩を持とうか、いや、どっちでも良いかって思っている。楽観と悲観は気分というより、それぞれ自分の一部で、時々でどちらが優位かくらいの色合いしかなさそうな。

 でも、自我が生まれてからずっとひたすら考えていたかというと、それもどうだろう。使い使われる言葉が増えていくにつれて思考は細分化するけど、ほんとうにそうなのか。例えば、文章は自分の思考を書いているというより、発見しているに近い。書いているうちに書くことが引き出されるのは、言葉というスコップで自分の頭を掘り返して、そのスコップで掬った部分を数えているだけでは。つまり、自分の頭の中にあって自分ですら見えない思考があって、そこではほぼ無限に何かが考えられているのではないかという思い付き。思考は物理時間を超越するし。

 だから、どれだけ思考を言語化してもそれはずっと何かのごく一部でしかなくて、どこまでいっても終わることがない徒労。眠い頭で良くこんなこと考えるわ。日記は自分への手紙という説があって、確かにそうだと思う。ただ僕は自分が書いた文章を読み返すことがほとんどないし、Wordで書いている毎日の文章も書き終わってコピペしたら保存しないから、アカウントが消えれば一緒に消える。だから少なくとも未来の自分に対してではない。ではいつかというと、きっと現在進行形の自分に対して。スコップでせっせと掘りながら自分の思考を発見している。発見したものの中から何か生かせるものがないかでもなく、ただひたすら掘っているだけ。寝て起きれば穴は元通りになっている。

 これは別に悲観でもないな。もちろん楽観でもなく。終わらないということを求めているのかも。終わらないことなんてないのだけど。まぁいいや。どうでも良い。僕のなかではどうでも良いは楽観的な言葉。なんだかメビウスの輪みたい。どこまで進んでも出発点に戻ってくる。

今日はここまでにしよう。

 

 おやすみなさい。