自分返り(前

 今夜の月は隠れていたけど補給は要らないから大丈夫。とはいえ、明日も平日と同じくらいに起きるのだけど。麻雀誘われなかったら京都で目(心)の保養をしてからちょっとファンになった丸善で専門書を漁って忘年会ルートがあって楽しみだったけど、予定通り麻雀があるらしい。京都ルートは日曜日もある。麻雀が楽しみというより、誘ってくれた人のラインの文章を見る限り、この人ほんとに競技としての麻雀が好きなのだというのが見えてこの新鮮さは栄養になるなと。

この文脈で言うと、仕事の時に問い合わせに関するFAXを送ってもらったのだけど、その時に手書きで質問の文章が書かれていたのがとても美味しかった。質問を投げる相手である僕に向けて整理して書いてくれたのだろうなと。1人仕事中に資料を見ながらにやにやする変人。変な共感覚が芽生えてきている模様。文章の巧拙じゃなくて、その裏にある人となりを食べている。むしゃむしゃ。本当にそうかどうかは全く繋がらない。

仕事と言えば、今日帰り際に、そうとう優秀という噂だけどって面接してくれた人に言われ、新卒3年目くらいの人に自分より回答できているみたいなことを言われた。個人的にはどこがやねんっていう感じ。まぁでも、これだけ色々やっていて吸収率低かったら目も当てられないという気もする。僕は割とすべてを全人格的に還元してやっとここ。料理も仕事も読書も文章も素の自分と切り離していない。

話術の凹み具合よ。と言いながらクライアントとの会話を結構楽しんでいる自分も居て。相手の状況説明から何がしたいのか推論するとか。でも、これくらい愚鈍で良かったなと思う。いや、愚鈍でも吸収率低かったら駄目だから、素直に自己改定できるところの方が重いのか。

過去の自分の口癖で「人間は学習することができる」っていうのがあったのだけど、これって生物共通だから、むしろ「人間は学習しないことができる」に口癖を撤回しよう。使いどころ全くなさそうだけど。試行と学習は違う。ついでに、学習と経験も違う。重なる部分もあるけど。おそらく経験と学習って受動的なものと捉えるのが一般論。何かしたことによる経験値を自分の中でどう転がすかが重要なのであって、ただその現実を経たことにはさほど価値がないというか、それだけだと自他の区別ができない。固有じゃないと言って分かる人はどれくらい居るのか。

 試行の繋がりなのか、昨日書いた日記の冒頭を書き終えて読み返すととても読めたものではなくて、僕が自分の文章を読み返す気が起きないのが分かった。自分の文章がへたくそだからだと。昨日の日記何書いていたかなとさらっと読み返すことすらしない。別に完成度を求めて書いている訳でもないから誤字脱字は問題ないけど、読み手として読んだら何を読んで欲しいのかが分からんなと。書き手としてはそういう風に書いているという向きもあるけど。

 読み手としての基準と書き手としての基準は違うし、へたくそだと評するとき他人のことは全く考慮に入れていない。評価の言葉って基本的に比較の観念が付着しているけど、僕は絶対評価でこういった言葉を扱っている。相対なら名だたる文豪達の美文と闘うことになるからやっぱりへたくそ。完成度頑張った文章で唯一残っているのは、去年の劇評でPDFで残っているけど、読み返す気はしない。こういう絶対評価を貫徹すると、人からの評価に意味を感じなくなるのか。意味とは別に、どう評価しているのかは気になるけど、これって自分には還元されないよなぁ。

 アルコール入ると脳内言語量が増して拾うのが大変。

 相対ではない評価の言葉ってどれくらい存在するのだろう。というとっかかりはベルグソンさんと通じそう。痛いも比べられるしきっと好きだって頭をなでたいとか具体的な行為を示す言葉も今がそうであるだけで、今が過ぎ去ってしまえば。

 とりあえず前編終了。