構成要素

 夕方十二国記の次に何を読もうかと本屋に出かけるために外に出て初めて雨が降っていることに気付いた。雨の日って昔はもっとあったような気がするけど、これって単に物珍しくて印象に残っているからだろうな。テレビでは毎年水不足とか言ったような気がする当時。

 結局本は見つからなくて。まぁそそられないときに買ってしまったらろくなことにはならないからしょうがない。とりあえず今日は太陽の塔を読み返すことにした。古典ブームだから読み切る前に切り替わるに違いない。ボルヘスの伝奇集もバベルの図書館までしか読んで居なかった模様。まだまだ足りない。青空文庫用にタブレット買おうかな。

 味覚の話。肉もあまりめぼしいものがなくて、鶏胸肉にした。なにやら乳酸菌とオリゴ糖で育てたらしい。何か他の胸肉と違いがあるのかは分からない。乳酸菌とオリゴ糖が採りたければ直接採ればよろしかろう。食料が動物の体を通したとき成分がどれだけ残るのかって自分の体で考えると分かるはず。コラーゲンみたいなものかね。水銀だっけ、みたいな消化されない物質ならともかく。でもこの味の違いも胸肉に精通すれば分かるのかもしれない。区別ができるということが知るだろうし。

 昨日の話はなんというか抽象的過ぎる自分探しみたいなところはあるけど、あれで自分を見失うということにはならない。僕だって普通の人間だし、実感はもちろんある。問題は実感が何をもって創られているのかであって、実感自体は揺らがない。あんまりこれを突き詰めると人に対して無用な言葉を吐きそうだから閉じたところで適用しているけど、被害者はきっと何名か居る。申し訳ない。可愛いも基本的にはセクハラよね。頭撫でたいとかも基本的にはアウトだと思われ。

 なんだか僕が近頃感じる自分が何も知らないっていう焦燥感は、時系列でサボっていたツケなのだろうなと思うことがある。実際にこれを言ってくれた人が居るのだけど。あなたはこのままでは100%になれないみたいな。

 そうして、物理世界への認識がやっと相対性理論に。学校の自然科学系の勉強も数式とか科学式を覚えさせるより、それによって世界をどう解き明かしたかをまず導入部分に入れると良いのにと思ったけど、それまでにもう実感としての世界が出来上がっているから、むしろ逆行なのだろうなとも。河出出版の「凄い物理学講義」という本なのだけど、とても辺りだ。なんというか、物理学も突き詰めれば抽象的な哲学的議論になるのだなと。

 ただ、科学者の凄いところは自分の認識を一般化するところ。誰でも使える理論を創ろうとする意志は凄い。これはプライドとか、自分の認識が客観的に正しいとされたいという欲求なのかもしれないけど、関係なく。正しさが本当に在るとすればこのレベルなのでは。

 アインシュタインが時間の相対性を論じたことはなんというか一般知識だと思うけど、これは完成形の一般相対理論で、その前の特殊相対性理論は人間の意識の話でなかなか面白い。時間に対する認識として、過去現在未来は数直線みたいに1つの方向に流れているように思われるけど、実際はそれを認識している今は過去でも未来でもないラグ的な中間領域であって、このラグはどうしようもないらしい。

 この今ここっていう観念がニュートンの物理学の欠点をどう克服したのかについては理解が追いついていないけど、最終的には世界には空間はないってことになったらしい。あるのは力場と場と粒子だけだとか。時間も場によって相対的なもの。アインシュタイン宇宙人説も分かる。

 空間と時間の絶対性は実感として在るものだとしているのは、連綿とした刷り込みでしかない。と断言まではできないけど、このラグ的な今ここって、なんとか心理学で見た気がする。全ての学問は繋がっているような。ただ、この旧来の実感に対して何か疑義を提示しようともならない。実感に依れるっていうのは健全な精神性だから。

 僕がツケだと言っているのは、義務教育手前に宇宙の本とか読んでいたなぁ、そのまま一般に合わせずにやって居たら良かったなぁとかの空想論。僕が関係を断捨離したのは、人って他人の認識を自分の認識に押し込めようとするもので、そこに居るときの自分が狭いから。でもこれって素朴な人間としての作用ではある。仲間が居たら自分が薄くなって自分のこと考えなくて済むし、安全だし。

 成績評価も嫌だったなぁ。恩恵を受けていた側だけど、比べられると、あんまり上には行きたくないし、そこで褒められたところで全然嬉しくない。人のこと気にしすぎだわ感。人ってそれほど他人のこと観測している訳でもなし。でも嫉妬も羨望も人を見ている評価じゃないから。

 僕の自由性は汎化してショートカットされてきた自分の価値観を問い直してやっと獲得しつつあるもの。欲求がいつでも叶うみたいな意味の自由では一切ない。そうか、他人をもっと壊しても良いのか(邪悪)。

 最後、場の考え方だと、祈りすら他人に干渉する行為。何かに干渉してしまうことは物理的にも仕方ないことだし、きっとこの先には思考が量子に影響を及ぼしているということになって、量子は世界の最初だから、聖書の光あれもそうしたのは神じゃなくて個人だということになりそう。

 せめていい影響要素ではありたいですな。

 

 では、皆さんがほどほどにみたされますように。

 

 

 おやすみなさい。