世界に秘密なんてない

 今年の冬は随分と暖かい。たぶん体感だけではないはず。体感を比べるなんてしょうもないけど、去年のこの時期とっくに平日コート着ていた。天気予報を見なくなったから、気温も良く分からない。特に不便はない。その代わり平日に折りたたみ傘は常備しているけど、当たり前の荷物としていれば、別に重くもない。体感気温で必要性を感じればコートは自動的に着るだろうし、というゆるさ。

 こんな体感気温ではホワイトクリスマスなぞあるべくもなく。ケーキも食べていないし、何もしていない。ご飯で一番それっぽいのはスナップエンドウだけど、これもたまたま。日付に出来事を結びつけるのはすこぶる疎い。けどこれを書いていると、1つ料理に結びついた日付を思い出した。マスタードとかはちみつとかでつけ込んだ鶏肉の料理、なんて言うのだっけ。を作ったような何年か前のクリスマス。当時の恋人に送ったのだか送れてなかったのか。記憶と時系列を一致させないのは、誰かに語る用の記憶ではないからだろうな。時系列が湾曲した記憶は夢に近い。

 なんとなく雰囲気を出そうと思って、バックナンバーのクリスマスソングをBGMにしてみたけど、結論としては同意するけど欲しい欲しい言っていて同感ができなくなった。その前に、(cover)って付けずにアップするってなんとなく嫌ね。無料だから仕方ないけど、声と作者が一致して完成品でしょうと。

 でも、「欲しい」が可能性でしかないっていう意味であれば分からなくもない。それでも同意できないのはできれば隣に居て欲しいは、まだ分かるか。ただ、日常の隣に居て欲しいみたいな願望はないな。これと併せて、僕のことをいつも考えて欲しいっていうはどうあっても同感できない。想い人には僕のことなんてなるべく考えて欲しくなくて、もっと現実で楽しいことを考えて幸せになれば良いと思う。

 恋愛感情を観測すると(自分の恋愛感情すら思考対象にする変人)、相手を欲する、相手のために何かをしたいっていう感情はあくまで主観的なものであって、相手からの供給とは無関係に在るもの。それがたまたま相手からもあれば一致して恋愛になるけど、これで相手からの供給がある限りで自分は相手のことを好きなのだってことにするなら、これは相手のことを想っているというより、自分が満たされたい訳で、相手のことはどうでも良いってことになる。このどうでも良さを不可視にするために公的な番制度があって、その下位互換にカップルがあると捉えると個人的に凄く分かり易いのだけど、どうだろう。

 これを、恋愛感情に付随する諸々の感情、嬉しさとか切なさとか寂しさを与えてくれた存在自体が在りがたいとしてしまえるなら、相手が自分と関わっているかとか供給してくれるかどうかは全く意味を持たなくなる。感謝を伝えるくらいはしても良いかなと思ってやっているけど、この文脈って、伝達道具の言葉を使っていながら、伝達を目的としていない。

 言葉は自分の意志を伝える道具でしかないって思っていたら分からないだろうけど、これが祈りと通じている訳で。祈りは一方通行だから、嬉しいと言われたところであまりエネルギーにはならない。なぜなら、祈るエネルギー源は自家発電でしかないから。祈られたくないと言われたらやめるけど。どんな宗教も全宇宙の充足は祈ることがないような。

 ほぼ純粋な独り身になってやっとわかったのが、世界の成り立ち自体が素朴にずれているのだろうなということ。こういう自分勝手が関係というか繋がりの原型で、相手に対価を求める観念ってきっと後付け。これって人類の経済とか文化の歴史と密接に関連していると思われる。資本主義とか権利義務とかまさにそんな感じ。そこに統一化しないと成り立たなかったから、人間関係の素朴なまとまりとしての家族さえ法律でルールを作らないといけなくなった。家族法っていう学問領域が発展していること自体が、家族には紛争がいっぱい起こったということで。

 いつも書き足りない。日本人は世界でも特有理論はとても好きで、たまたま読んだから書こうと思っていたけど、予定は未定なので。ざっくり書くと、人間はアカシックレコードから外れて未来を予測できないことで存在として固有になった(動物は現象を予知している)、そうして日本人の脳は不合理(虫の音を環境音から区別できるとか)、日本人の食生活は縄文時代と変わっていない(僕はそんな感じだけど一般的にはどうか)みたいな話。

 では、物理学の話。はっきりいって素朴な感覚では追いつけない領域だけど、量子論に突入した。粒性と不確定性とあとなにだっけ。引き出せなくなったけど、世界を構成している最小単位が、確率でしか捉えられないとのこと。面白いけどここまでいくともはや通常人にとってはSFでしかない。確率的存在っていうと分かりにくいけど、観測できるのは一定の限定された範囲で次にどこに現れるかは完全に予測できないでも、まだ微妙か。説明するために収集していないからこの辺りが限界。

 でも思ったのが、この量子の性質って、人の縁と似ているなと。自分が観測できる人が全人類的集団な訳ではなくて、あくまで自分が観測できる範囲の人でしかないし、他人を完全に予測できるわけでもなし。だから世界の認識の範疇がどれだけ拡がっても、自分も含め人を理解し切ることはできない説。自分ですら途切れなく観測できないのに他人なんて言わずもがな。

 

人って1つの宇宙だと思われる。

 

 僕は自分で自分を制限する傾向がやたらと強いのだけど、これも1つの経験則でしかないから、命が続く限りもっと世界を面白く感じて生きようかなと思った。自分に対する供給も自然に感じるようにならねば。

 

では、おしまい。

 

良いクリスマスを!