切り取り

 濡れそぼる猫で始まり雲透かす月で終わった日。

激しく降った痕跡を残して、世界を平等に濡らして去った雨の匂いを感じながらの出勤。猫は天気予報より精度があると思うのだけど、何故濡れていたのだろう。濡れるしかなかったというのはなかなか考えにくい。なんだかまるまるしていたし、車の下という雨宿りするスペースはたくさんあるわけで。これが全然関係ない朝シャンから逃げ出したか、濡れたかったからだということなのかで全然違う。人に近くなると動物も未来が予知できなくなるのかもしれない。
帰り。雲間から星もちょこちょこ主張していた。星座はあまり分からないけど、おそらく1つの星座はまるまる見えていた。地元の空を言語化したから、大阪の空もそこそこやるだろうというのを見せてくれたのかも。駐車場の猫はあくびをしながらーって鼻歌を歌いながら帰る。いや熱唱か。
中間。風がとても強いお昼時間。母親から連絡下さいってメッセージが届いていたから、言葉で「元気です。」とだけ返した。これで生存確認できたと思うのか、いや連絡とは電話だろうと思うのかは知らない。まぁ仕事前に電話で発信してくるくらいだから、たぶん自分の範疇でという観念だと思う。でも、なんとなく、母親が僕に対してどう思っているのかがどうでも良くなっている。どういう手練手管を使ってくるのか。音信断絶になった姉には手紙を送ったらしいから、手紙来たら何万文字くらいの手紙を返信しても良いかもしれない。ただ、エネルギーの無駄だけど。それより、息子は気まぐれであるという観念をもっと植え付けた方が楽。文字を綴ることに特に苦がないのは日記を見ていれば分かるだろうけど、交信の中の言葉は勝手が違う。誰かに何かを伝えるなら言葉は必要最小限であるべき。それだけを伝えたいのであれば。
ともあれ体重いなぁと体感しながら木にくっついた枯れ葉を眺めていたら、その中に颯爽と、いや孤高に枯れ葉に紛れて立っているカラフルな小鳥に目を奪われた。カラフルという当て言葉は不適切。全体的にはモノトーンなのだけど、鮮やかなオレンジと赤のラインが入っている感じ。この鳥の名前を知っている人が見ればあぁこれかになるだろうけど、知らない人でも自分の心象からなんとか想像できるのが言葉の2次的用法。なんにせよ格好良い鳥だった。
こんな1日。あと、補足。僕が同期のことをなんとなく悪い意味で気になるのは、ちょっと姉に近い性質を感じるからだろうなぁと思った。年齢も確か同じだし、人当たりが良いのも同じだけど、なんとなく乾いている。あんまり気にしないでおこう。
 さておきというか、さておかない。ベルグソンさんとも友達になれそうだと思った。今日読んだところは、感覚を言語化することとはなんぞやという部分で、言語化するということは必然的に固定化することになるとのこと。一般的には良く分かる。個人的世界は移り変わっているけど、それに普通は気付かない。何故なら。個人的生活より社会的生活の方が重要だから。「私たちは本能的に自分の印象を凝固させて、それを言語で表現しようとする傾向がある。」「私たちは感情そのものと、、、その対象を表現する言葉と混同することになる。」
 ざっくり訳すと、自分の感情が感情を表現する言葉になりがちということ。僕も多分そういう風にしていたけど、徐々に移行しつつある。印象を言葉で凝固するのではなくて、印象を写真に撮ったように一瞬切り取ったものが言葉としている。凝固するための言葉は客観だけど、切り取る言葉は主観。他責と自責に対応しているのだけど、この分析は秀逸だと思う。ベルグソンさん。
 とても理性的だけど、浸透はしなかったのだろうなぁと。人は素朴な本能、もとい社会的に継承された観念からはやすやすと逃れられない。この社会的っていうのも等しく共通している訳でもなくて、それぞれの素朴な生活圏という小さな社会がさらに大きな社会に繋がっている、階層構造をなすもの。自分の当たり前は他人の当たり前ではないという当たり前すら気付けない。
 そういう意味で、もっと思想の選択肢が狭かったのに生き残っている古典はとても歯ごたえがある。古典として生き残っている作品が全て普遍性を有しているとは一概には言えないけど。古事記は歴代の天皇がどれだけ子を産んだかみたいなパートになっていて、確かに子孫を残すのは寿命が短い時代においては繁栄の象徴だろうなとは思うけど、冒頭辺りのおいしさが全然ない。残してきた集合意志みたいな執念は流石だけど。
 無知の塔は食べ合わせが良いので、生物学とか共通感覚とか諸々ある。生物が繁栄したのはシンギュラリティがあったからだとのこと。複製ができることを前提として、複製の中でより良き個体が生き残っていって従来の基準が使えなくなることらしい。これと人の観念の時代性を照合すると、今の観念を正とすることは次世代に淘汰される観念でしかないなと。変な話、前世代の観念をそのまま是としていることもあるけど、これは明らかな恣意的な固定化。
 共通感覚の方は、記憶というか観念を司る器官はどこかという話で、松果体についての記述だった。そうして、この器官はリラックスホルモンを分泌するものだったりして、人の観念はホルモンに支配されているなぁとか。ホルモンバランスは男性体の僕より女性の方が良く実感されている。内的ホルモンに左右されるのが女性だとすれば、外的ホルモン(社会性)に支配されているのが男性みたいな均衡。気分によって思考が変わらないって宣える人はきっといない。
 ついでに、分析哲学と生物学の組み合わせ。人の細胞は日々入れ替わって周期的に違う物質になるけれど、それで自分が同一ではないとする人はいない。これは論理的にどうなるなかというと、同一性は入れ替わりとは無関係とするしかない。これを頭の中にしても、ある体感を通り過ぎた後の自分は変化している訳だけど、変化という観念自体が前後で人格に同一性があることの証左という。
 これで、いや、自分の人格はあくまで1つしかないと信じられる人はそれで良い。ベルグソンさん流に言うと、自分という印象を自分という言葉に凝固しているだけなのだけど。
 最後。僕が今年やたらと生き生きしているのは、自分を外から決める存在を排したからだろうなと。僕は前述のように自分の印象の言葉と自分自身を連結させていないし。想い人が好きなのもここにあるから最先端。自分自身であることと自己表現は別だし、自分が表現された言葉の心地よさにもたれかかるのも違う。
 じゃあ何が存在になるのかというと、何にも繋がっていない印象。これは別に言語化する必要がない。印象を印象のままで保てるかどうか。例えば供給してくれるからとか需要があるからとかで自他の人格を決めるのであれば、繋がった中の話。
 繋がりはたまたまでしかない。

 想い人への言葉を綴りたい衝動もあるけれど、もったいないので、個人的に発信するかやめとくかはあとで決めよう。

 では、皆さん言葉に惑わされませんように。