不可知

 

 

 昨日の日記の訂正。万博公園に行きたいのは記憶の交信ではなくて、更新。冒頭から誤字。脱字ならともかく、意味が変わるのは駄目だ。一応訂正した。交信はありえないし僕もなくて良い。おそらく、世界がもう完全に違うから交信もできない。なんと無様な訂正。

 

 はまちが美味い。魚のおいしさは生生しさかと思ったけど、違うな。哺乳類の肉より自分と違うから。野菜とかきのこが美味しいのもそう、かもしれない。

 

 これの素は、足跡ついていた人の日記に出てきた男性があなたはあなたで良いのですみたいに言いながら結局まぐわうのかい。というというところから。

 こういう感覚は記憶の中にもあって。具体的なことは書けないけど、僕の話ではない。こういうところで考えると、男性は完全に奉仕的にまぐわうことはほぼ無理だろうなと。女体を求める衝動がないとそもそも準備ができない。女性は構造的にそれができるような気がする。まぁ良いかでまぐわえる。あくまでしようとすればだけど。女体ならある程度なんでも良いとする男性とマッチはするだろう。

 なんの話なのだという話だけど、もうちょっと。村上春樹さんは性描写で有名だけど、「世界の終わりとワンダーランド」では、自分の体は相手を求めていても、あえてまぐあわないという描写が出てくる。本当に浮き彫りにしたいのはその辺りなのではという気もしないではない。「生活」という概念からみれば共同生活においてまぐわいって当たり前のことだろうけど、あえて非生活的な関係を書いてみたかったのではという1つの仮説的切り口。

 

 求めてないのに好きだという観念はありうるか。

 

 さて。ラブレター・トゥー・ストロベリー・アイスクリーム・ガールズの話。って書いて世界で分かる人0.0数パーセントだけど、そんなことはどうでも良い。

 

 他の人の読書感想文も面白いなと思った。ちゃんとした文章を書く人がちゃんと自分と小説を分けてきっちり書いている感じ。想い人が嬉しいと書いていて一瞬(正直に言えば数時間だけど人生で言えば一瞬)ちりちりしながら読んだけど、まぁ美味しくはあった。ただ、ごめんなさい。僕の主観としてこの人の小説を読みたいとは思えなかった。もちろん、ちりりちりは関係ない。

 

 時流のところに生きていないから。そりゃあ書く人は時流とかジェンダー感を気にしないといけないだろうな。僕が読んでいるものはそういうものではなかったというだけ。僕は女性も男性も等距離で良く分からないという観念になって来ているから、自分の肉体がどっち寄りかもあんまり関係ない。そもそも決められた自分から離れないと自分の現実から離れた本なんて読めない。かつての友人は女性の作家の方は性描写がメルヘンで読む気にならないって言っていた。つまり、自分の素朴な観念から離れたものは読み取れない。

 

 僕は地道にそれを引きはがして、登場人物の誰かにも重ねないし、自分とは違う感覚もまぁあるだろうなという風に読めるようになって、文章と自分は別腹になった。だから女性向けの本も読めるし。

 

 あぁ、ぼくはイチゴアイスではYさんの話が好きで、夏の終わりではカナリアが美味。

 

 なんというか、本日の僕の文章ってほとんど想い人用の語彙だから、他の人が読んでも、日本語としては読めても全然分からないと思う。相手の生活を侵害したくないけど焦がれるって普通に成り立たない。

 

 では、語彙を一般的に戻して、もどうだろう。戻せるけど、それもどうか。誰にも通じる言葉って本当はない。通じると思っているから話すわけであって、みたいな感覚がある人でどれくらい居るのだろう。通じるが、自分を認めてくれるとか自分を許容してくれるだったら、本当は誰にでも言いたいところを解除してくれる人が居たから自分が言いたいことが開放されるだったら、この日記の文章とは交わらない。

 

 僕は本当に言える人にしか開放しないし、言ったから何かが変わるなんてこともない。僕の素朴な自分観は、人とはなるべく関係しなくても成り立つし、認めらたことは嬉しいけど、なんだか場違い感はあるし、この嬉しさは自分の生活を充実することとは無関係。断捨離して思ったけど、僕は誰かに監視されていない状態が一番動く。

 

 僕が気にしているのは、読んでくれている人はもっと時間を他のところに遣えば良いのにというところ。これは止まり木になって来ていた時系列で、僕が世界からいなくなった方がその人にとって良き人生を送れるだろうなと思うから。僕を求めるってそうとうしんどいと思う。

 

 ともあれ。これは毎日一通の恋文で良いか。書ける気しないけど。

 

では、皆さんが自分を見失いませんように。