見えなくても良いもの

 

 

 朝はざる蕎麦、昼は豚肉とキャベツのウスターマヨ炒め丼。夜は鶏肉にしようかと思ったけど、しっくり来るものがなかったので鯖水煮缶と豆腐がメインの炒め煮。人参と玉ねぎと椎茸とブロッコリーの芯。あとは1/4白菜を内側から使って浅漬けとサラダ。もう日曜日の夜に弁当の準備をすることに対して何もブレーキになる観念がない。精神ってなんだろう。投げる言葉と投げられる言葉。

 

 ○○向けという本。確かに書き手としてはどういった読み手に向けて書くのかを決めないといけない。専門的な分野は特に。読み手をどう設定するのかというのが文章を書くことの前提になるのか。今読んでいる免疫学の本、「神経免疫学革命」というのだけど、これはおそらく割と高齢者向けなのだろうなという気がする。認知機能の低下を自覚している人に向けて。何故そう思ったのかというとこれも思い出。祖父の家に同じようなフォントの「脳内革命」っていうのがあったこと。確か家庭の医学もあったな。何故に覚えているのだろう。

 認知機能を維持するためには、運動、読書、社会的繋がりだとか。個人的にはそもそも認知とはなんぞやだけど。例えば記憶とか知覚とか認識とかだったら、生活の範囲でそれができれば問題ない訳で、あぁそうか、生活の範囲を保つための維持か。僕は維持のためではないからこういう感覚は分からない。認知は認識の一部で、認識は生活の範疇を明らかに越えているし、認知はあまり拡げなくてもいいと思っている。あくまで関係としての共通項。

 

そうして、免疫機能は脳、というより精神に影響を持っているらしい。うつ病とか。おそらく最終的に免疫機能を高めるためにはとういう話になるのだろうなと予想している。これはまだ分からないけど、面白かったのはストレスの話。

短期的なストレスは免疫機能を高める、要は、精神が正常向きになるということ。ストレスを悪いものだと思っている人も多いけど、ストレス自体には良いも悪いもないはず。ここで思った短期的ストレスって、物理的環境が一時的に変化する旅行とか移動だろうなと。環境が変われば警戒する、注意することをしないといけなくなるから。危険な登山とかもこういう文脈なのかも。

で、慢性的ストレスは免疫を低下させるらしい。閉塞感みたいなことだろうけど、この閉塞感って認知からのフィードバックではないかと思わなくもない。自分はこういうものだ、こういう精神性は良くないと言われてきた。この関係ではこういう自分を保たなくてはいけないとか。風邪とかの邪気を一番持ってくる存在ってきっと自分の人間関係のうちの誰かではないかと。素朴に考えてキャパオーバーに見える。自分個人で何かしたいということがないならともかく、他人にできることなんてたかが知れているし、自分が他人にとってどう見えるかとか見える像で振る舞わなきゃいけないなんて、まっさきに捨てるべき項目。

そもそも本当に選んだ関係なのかと、問うてみるべき。

 

ところで、休みの日の研究もなんとなく安定してきた。判例付き六法に短答式の過去問で何を問われたかをチェックするだけの作業なのだけど、試験を創る人がどういう問題意識なのかを想像しながらするから、自分でやらないと意味がない。脳の筋トレみたいなもの。考えるのは染みついてからでもできる。しれっとExcelの関数のチュートリアルも見たけど、これは仕事中に触ってみよう。もう少し時間をかけても良いかと思うけど、平日にどう組み込むかの方が大事だと思われる。単純に平日の方が多いから。毎日まんべんなく触る方が僕に合っているだけかもしれないけど。

現在、無知の塔はやや低くなったけど、同じくらいの高さの法学の塔が出来上がった。何冊並行で読んでいるか数えるのも無駄だけど、この読み方についてあれこれ言う人が居ないのが良い。

出版社で言うと、光文社がなかなか熱い。アランさんの芸術の体系もそうだし、カントさんの純粋理性批判(まだ1だった)もそう。あと個人的にちょ古っ都製本工房も。

 

どうでも良いけど、認知機能から考えるとテレビはこれを低下させるもの。世界が受動的な認識で溢れてキャパオーバーになる。あくまで世界は主体的に構成するもの。主体的に構成されるという認識のもとに低下とかあるのかしら。主体が変わるだけでは。

 

 ちれっと読書感想文。同じ本読もうとしてもそうそう読めない希少な本。僕は小説読んでもう一周しないとなと思うことはほぼない。そのうち読み返すかなというだけで。でも、この七つの夏の終わりについては、もう一回近々読まねばと感じた。とても珍しい。

 

 では、もう1つ私的な文章を書くのでここまで。

 

 良い夢を!