尊さ

 

 

 

 研修で1時間残業だったから日常に組み込む算段は失敗。昼休憩に証明写真をとって帰ってから願書に貼りつけたり同じく貼る用にこの前買ったはずの収入印紙を探したりして明日の昼休憩に書留で出せるところまでは整える時間もあったけれど。時給変わらないのにやること増えるのはどうなのだろう。今のところはまぁ良いけど。

 

 ここでの話は仕事の話ではなくて、僕が自分に甘いという話。物を決まったところに置かないから収入印紙もなかなか見つからないし、はさみ探すのも大変。我が部屋はほとんどカオス。ただ、別にそれでいいというのも確か。そのためにはいちいち見つからないことにストレスを感じないこと。大事なのは、物を片付けることではなくて、自分の中をどう整理するか。日用品が見つからないことはどの時系列の自分も納得済み。本の位置は何となく把握しているから。結局のところ自分のどこを取捨選択するかかと。ここから見ればそとの世界なんて些細なもの。自分の嫌なところを受容してくれる人を求めるとなればそとも関係してくるか。

 

 でも求めてくれる人が居ることで自認の感覚が満たされるというのは自然な自意識なのかもなぁと、研修中に思っていた。研修してくれた人が少し年下かなという同性だったのだけど、同期がやたらと媚びているというか持ち上げているというか。別にどうでも良いし、とても世渡り上手だなぁと思ったけど、なんというかこういうことで成り立つ関係って嫌だなって思っただけ。よいしょした方が自分に都合良く動いてくれるみたいな意図が見えるのがどうも。あぁでもこれが仕事なのか。僕はどちらかというと上の人の負担をなるべく減らせるようになりたいなという感じだから駄目なのである。関係が構築できないという意味で。ただ、僕は仕事場の人と歓談したい訳でもないからしょうがない。まぁそこそこ普通にはやれているし勝手に楽しんでいることは変わらない。

 

 とても日記的な前置きだ。

 

 今日はとても風が強くて寒くなった。空模様もぐずついていたし。ただ、僕はなんとなく嬉しくて、このまま冷えて雪が降れば良いのにと楽しんでいる。風の抵抗で歩きにくのも珍しいわーとか。記憶を掘り返しても、雪に対して寒かった体感より視覚情報の方が再現される。体感は喉元過ぎれば忘れる。忘れないとしたら、あえて観念が言葉として固定しているだけ。言葉としての記憶は体感からはやや離れている。と思うのは、お風呂に浸かった後にほぼ冷水シャワーで毎日冷たい刺激を肌に与えているから。

 関東は大寒波らしいから、雪が降ればいいなんて不謹慎かもしれないけど、不謹慎をきにしていたら何も言えない。どんなことだって誰かには不謹慎な可能性がある。

 

 記憶の中に残った対象は思い出という言葉で一括りにできるけど、言葉の中身は常に微妙に変化している。カントさんのいう、「すべての変化には原因がある」という概念が経験の外にある観念だっていうのは、この文脈で言えば、アプリオリなのかもしれないけど、僕はなんとなく腑に落ちないところがある。

 僕はベルグソンさん寄りなので、原因がない変化も観念されて良いのではと感覚する訳で。そもそお原因と結果の関係、つまり因果関係って、そうとうに恣意的というか社会的な観念。確かに原因はいくらでも挙げられる。例えば僕はこの時代に生まれたからこの精神性を持つことになったのだとか。でも、これが経験より前にある観念だってなったところで、だから何なのだということにならまいか。

 でも時代性として、カントさんは人一般を考えざるを得なかったというのも分かる。社会感覚が今ほど個人主義ではないから。学問は一般を探ってなんぼだし。僕は別に人一般なんて知ったことではないからその分有利だろうなと。ただ、自分の意識がどこから後付けで、どこまで先付けなのかという探求方向は好き。

 

 僕もこういう方向で自分を掘り下げているし高めている。他己評価がないときの自分が一番動くとか、より自由になっているとか。

 

 時間の感覚でいうと、楽しんでいる割にまだ今年になって一か月も経っていないという。来月は楽しみなこといくつかあるけど、なかなかやってこないのがとても嬉しい。要は物理時間より遅く生きているという意味で、ある意味アンチエイジングだろうなと。明日の僕はまた新しいことを考えてここに綴っているだろうし。自分が1つである必要は全くないということ。

 

 もしかしたら走馬灯みたいな意味もあるのかもしれないけど。死に際は時間が凝縮するというし。でも、僕は明日自分がこの世界から退場したとしても、地縛霊にはならないと思う。今読める世界を最大限楽しんでいるだけで、明日無くなるかもしれないことは今に当然含まれている。だから駄目なのだけど。

 

 あと、日常は目を凝らせばいちいち美しい。極論で言えば、自分の部屋のカオスは自分という存在が構築した建築物だし、もっとわかり易い例で言えば、風景は一日ごとに全然違う。同じとしか見えないなら、それは日常とか風景が言葉としてこびりついた観念になっているから。同じルートで生きていたとしても、そのルートを完全見えることなんてない。

 

では、良い夢を!