反逆

 

 

 

 

 穏やかな気分で寝たはずなのに、夢はホラー仕立て。別におばけは出てこなかったけど、「オンアビラウンケンソワカ」と唱えながら目が覚めた。意味も知らないのに。なんだか体というか脳に嘘つくなよと反乱された気分。嘘はついてないけど、確かに正確ではない。というかどれだけ厳密に説明しようとも説明し切ることはできないけど。穏やかというのは厳密ではないということ。

 

 そうして早めに目が覚めたら、外でびゅーびゅー風が鳴っていた。きっと寒いだろうと思い込んで、吹雪で包まれたらいいのにと風をBGMに二度寝うとうと、日が出てきたらからっと晴れていて、今度は風の代わりにやたらと飛行機のごーごーという音が鳴っていた。何故だろうと思ったら職場で聞いたコロナウイルスの関係なのかなとか。チャーター機で各会社が送還しているとか。

 

 ついでに、部屋から見た空が、とても冬らしかったからこれはとてもキンキンに寒いだろうなと思いながらわくわくしながら出勤したら、凄く暖かいという。残念だったけど自然とはこんな存在である。というか、自分を含めた世界の全てがこんなものではないかという仮説。

 

 そんなこんな、なんとなく視界が狭いかなと思ったけど、一日は滞りなく過ぎた。残業もなかったし、洗濯機回しながら決めたことはちゃんとこなした。肉体と精神はそこまで繋がっていない。繋がっているのは、寝起きくらい。朝ごはんよりギリギリまで寝ることを選んだ。ただ生きることはわりと難しくはない。放っておいても勝手にやってくれる。

 

 

ともあれ。本を読むことは自動制御とはいかない。受動的に読めば良いというものではないので。

 

免疫学の本はやっぱり免疫を手っ取り早く高める栄養と行動が出てきた。でも好き言い回しだなと思ったのが「週に何回かでいいので、食物連鎖の下の方の物を食べること」。魚は入っているけど、肉は入っていない。当然食べるものだから入っていないのかもしれないけど、ここで空想的推論が働く。捕食される側というのは常にストレスにさらされているから、肉体にそういう物質をまとっているのかなと。果物とか豆とかナッツが良いらしい。これを主に食べるのも草食動物だし、ニンゲンにはとりあえず食べられるリスクはないし。

 運動も良いらしい。血液が回ってという物理的肉体の意味が主だろうけど、ここも

空想が働く。僕は歩くのがとても好きだ。平日でも行きかえりで30分くらいは歩く。これは何故か。自意識で考えると、世界が回っているというか、自分の肉体は自分のものであるというか、そういう感覚があるから。自分は自分であることが当たり前だと思っている程境界が曖昧なのは、恐らく自分の肉体の外にある道具とか環境も自分としているからではないか。例えば通勤に車とか電車とかを使っていると自分の肉体はほとんど動かないけど世界は動くから、その動き自体が自分になる。そうして精神が自分の肉体より外に肥大すると、自分の肉体を動かすことが無駄になるから余計に肉体が滞る。

 

 という意味で、運動って認知だけの世界と素朴な世界を調整する作用があるのではという仮説。ニュースを見て世界は広いと思い込んでいるから心身がずれる。なるほど、まぐわいもこの文脈から見れば確かな調整か。知らんけど。

 

 僕は思えば果物以外食物連鎖の下のほうのものを食べない日がない。乳製品も良いらしいけど、どうもタイミングが合わない。無糖のヨーグルトも美味しいとは思うのだけど。

 

 食べる食べられるでいうと、文章もそうだろう。義務教育時代が一番本を読んだ時期な人は、食べさせられたトラウマ的な観念が残っているから。もう少し考えると、栄養価ばかり凝縮されたサプリメントを欲しくもないのに毎日毎日口に詰め込まれた感じ。

 

 でも僕の観念だと、そういった読まされた文章も、自分の精神性の何処かには影響を及ぼしている。自分ですぐわかる影響はインスタントだけど、自分でも良く分からないところに何かの無意識が創られているかもしれない。これは全ての認識に言えることだから、食べるものを気にするなら、見える景色とかも注意しないと。なるべく好ましいものばかり意識的集めないと、すぐにどうでも良いモノが集まってしまう。

 

 この好ましさの中身はひとそれぞれで、楽かもしれないし負荷かもしれない。でも楽が持続する世界なんて何かねじ曲がっていると思う。嬉しいとか楽しいならまだ分かるけど。

 

 言葉が枯渇しないということは、僕の世界はまだ楽しいし嬉しいのだと思う。これは僕が自分に言葉の自由を認めているから、なのかどうかは知らない。

 

 おしまい。

 

では、皆さんが吹き飛ばされませんように。