身に余る喜びは世界に分けよう

 

 

 

 もっと自分で在ることを喜ぶ。そういうので良いのかなと思えた日。生きているというのはこういうことかなのかも。まだまだ。

 

 さて、本日はなんともイレギュラー。まず、携帯電話を忘れた。ポケットWiFiだけは何故か鞄に入っていた。なんとも宝の持ち腐れ。まぁスマホを携帯しない生活もあり。どうせ休憩中は何かを見ているだけだし、見るだけなら世界でも問題ない。見るものはいくらでもあるし。

 

 いやもっと淀みなく。ところで、1つ気になっている漫画がある。シュガーなんとかっていうやや狂った恋愛漫画。アプリの試し読みで読んだ。死で繋がっている関係というねじれがとてもちょうどいい。続きが本屋においてあれば読みたいと思うのだけどなかなか見つからなくて。本当に通すべきものであればそのうち逢えるだろうとあまり気にしていないからに違いない。WEB漫画で言うと山田くんだっけとか、原作ホリミヤとかも読んでいたな。桃太郎モチーフの時々エログロのピーチなんとか。ワンパンマンも原作読んでいたし、どれだけ暇なのか。

 本で言うと、おそらくだけど、近々プログラミングかAIの入門書を読んでいると思われる。1人で生活できるようになることに向けてというのもあるかもしれないけど、単純に興味がある。知らないことが多すぎる。

 

 仕事では、応対品質が良いとの評価があるらしい。言葉を話すスピードが一定なところが良いとかなんとか。ただ、抑揚がないのがネック。これはどうしようもないとしていたけど、どうしようもないことなぞないという観念ができあがっているから、おそらくなんとかなるかなという楽観。繕おうとすればできること。明日から意識しよう。

 

 そうして帰ってきたら、想い人からメッセージが届いていた。返信があるとすればこのタイミングだろうなとチラッとは頭に浮かんだ。周期がとても合わないから。そこも自分にとって都合良く回る外の存在だから良いなと思っている。

 

 で、返信は他にするとして、その中身。この前、といってもちょうど1年前くらいに書いた劇評がWEBに公開されていますよっていうのが1つ。もともと公開されていたけど、全員が1つのデータになっていた。それが名前付きで1つずつになったというもの。1年前の自分の文章なんて知らない人みたいなものだし、ちらっと読んでみたけどなんともむずがゆい。である調で論評しているのがどうも。でも、ちゃんと構成はしているように読める。色を基調に組み立てていて。おそらく作者もそういう風に創っているはず(たぶん)。色彩を持たないつくるくんみたいに。

 

 ただ、1つ気になるのが、PDFデータで見返すと、意図通りに改行とか空白行があるのに、WEBでは全てが詰め詰めに表示されているところ。自分の保存の方法が良くなかったに違いないけど、一応そういう空白も含めての劇評だったからなんとも遺憾である。

 

 あと、次の演劇の劇評の公募、良ければ応募してくださいねという情報。会った時の会話で、ティラノサウルスの人、また書いてくれないかなって演出家が言っているっていう時点で推測しても良かったのだけど、何故思い至らなかったのか。これは自明で、別に対価関係なく観に行くし書くつもりだったから。書いたら想い人にデータを送ってどのようにも使ってくださいなって。

 

 滑り込みだけど、正規ルートを教えて貰えてよかった。対価があるってことは自分の文章に現実的な価値があるとしてくれる人がいる訳で、それを無駄遣いしてはいかんなと。自分の文章の客観的価値を探る1年にしてみようかなと。もっときっちりしなくては。

 応募の文章は、作品がなんとも楽しみですとの表現になった。ちゃんと感情出ているではないかと。もう1つ別の演劇家の作品も対象だったけど、あらすじ読んで一気に観たくなった。世界はなんとも喜ばしい。

 

 若干、もう顔パスだろう見たいな雰囲気も醸している気がするから、担当者が変わって居たら誰ぞこれってなって落選する未来も見えて、これもまた楽しからずや。その時は想い人だけに送ろう。

 

 楽しいのは当たり前だけど、喜ばしいは少し違う。楽しいと嬉しいとの違いと同じようなもの。楽しいだと視点は1つだけど、嬉しいでは1つではない。喜ばしいは、他人の世界に含まれている自分が嬉しいということ。あんまり日常用語で聞かない単語なのはこういう見え方は自分という存在に含まれてしまっているからだろうな。この言葉が感情として挙がってくる時点で、在りがたい関係。

 

 今度の劇評はタイトル付けよう。主題とも台詞とも微妙にずれているけど近いやつ。作法知らないからかくかく書いていたけど、今度はもう少し慣れているはず。

 

では、皆さんが規定した自身から離脱できますように。