他者はロボット

 

 

 

 「さかさまのパテマ」ではなく「イヴの時間 劇場版」か。この2本はアニメ映画を見漁っている時期に観たもの。Dアニメストアの新着に入っていた。前者は重力が反対方向の少女が落ちてきて、最終的には反対側なのは主人公側だったみたいな話だったような。イヴの時間は劇場版以外知らない。アンドロイドが汎用化された世界で、人間が見ている時にはロボットらしく振る舞っているけど、ある喫茶店の中では人格がちゃんとあるみたいな。なんだかこういう世界の内と外という設定はどうも好きなのだろうな。

 

 SF作家のアシモフさんが創ったロボット三原則が法制化しているのはなんともSF的。ただ、人工知能が発達してる現代、あまり遠い話でもないか。人間の中だけでも劣等感満載なのに人間以上の存在が現れたらどうなるのか。凄いものは道具である限り凄い。

 

 人間と他者を区切るものって、なんだかんだ精神論な気がしないでもない。

 

 ルールだと思っていたものが取っ払われた時、人がどうなるのか。何年前に観たのか分からない。記憶とは関係なく、二十代の頃の記憶は混濁していたりする。歴史の記述みたいな意味ではレコードがある。けど、とても他人事。今もまぁまぁ他人事だけど、随分違う。記憶と自分を分けることができている。記憶と自分を分けるとはなんぞや。

 

「人間には人間のパートナーが一番」

なんか面白い。異種と比較したら、人間なら誰でもつがえるみたいな。異性恋愛が通常という基準からみた同性愛だと何故か自分が対象になりうると思い込む観念と近い。正常異常の違いとはどこにあるのか。

 

さておき。

 

何の話だったっけ。

 

イブの記憶今見ると全然違う。とても鮮明。自我が鮮明になるまでここまでかかったのか。

 

「この子は誰かに自分の名前を憶えて貰いたかったの」

 

自分の名前を憶えていて欲しいって思ったことはある?

 

名前でなくても、自分のことを覚えているから自分がその人の中にあるという認識があるかどうか。この認識論で言うと、自分が開示した情報が他人の記憶に残っているかどうかで他人が自分のことを想っているかどうかを判別する仕様なのが人間なのでは。

 

もっというと、人ってほとんど他人に興味がないから関係できるのではないかという仮説もあるけど。要は、自分が認識できる限りの他人は、観測者にとっては自由じゃないし、この関係における被関係性における他人の中にある不自由性。

 

まず人間の定義をどういう認識にしているか聞かないと人間観なんて分からん。

 

別に他人のことは知らないから、暗黒20代の話。自分が綺麗だと思うこととか自分がしたいこととかすっぽり抜け落ちている。まず、美という観念で世界を見て良いのかなと思え出したのが2年前くらいだし。ちょうど抜けた辺り。自分の観念論で話す人って、相手の観念なんてどうでも良いのだろうな。

 

20代の時、もうこの人一生好きで、ここの穴は絶対塞がらないと思っていた。でも、自分のことを好きだったら自分の都合の良いように人生を捻じ曲げろよっていうのはどうも違う。これって、自分にとって都合良く動くロボットを求めている感覚と近くないか。高度なアンドロイドで代用できそう。

 

僕は、人は自分にとって都合良くない人で、都合が良くなくても自分の世界に含ませたい人と定義している。

 

だいたいの対人関係の欲求は20年後くらいには解消されているような気もするな。

 

人よ。自分が嬉しく思う関係において、自分にとって都合が良いっていう観念を取り去って

も関係がありうる繋がりってどれくらいあるのか自問してみて欲しい。

 

ここでろ過した後に、残るのはおそらく5人以下だと思う。

 

 

ニンゲンだから高度だとか、ちゃんと関係しなければっていうのは人権思想から来ているのかは知らないけど、健常とされている人も人間はちゃんとヒエラルキーで分けているのだから、そこは開示した方が良いよねという話。綺麗事は好きだけど、この文脈でいうと汚いものは見えないようにしているだけ。

 

では、おしまい。

 

寒くなってきたので、皆さんが暖かくありますように。