全ての基準は人間

 

 

 

 劇評の公募は通ってしまった。来週土日は一気に芸術の世界。2本とも招待扱いになるのだろうか。企画担当の人の文面が前の時と変わらなかったから分からぬ。前の時も良く分からず行ったら無料だったし。まぁ、どちらでも良い。劇評を書く前に最初に観た演劇でも当日券のつもりで行ったら、前売り料金にしてもらったし。優しい世界だ。

 

 文面と言えば、この前との違い。名前に加えて肩書も入れる模様。たぶんどういう仕事をしている人がどう書くのかを読むということなのだろうなと「会社員」にした。僕の視点はどうあっても会社員にはなりえないけど、呼称できる肩書はこれしかないのが現状だし。本当は「一般人」が良かったのだけど、あまりふざけてもいけないだろうと自重した。なるべく匿名的に書きたいのだけどな。本読むときも自分は透明で、頭だけが動いている。

 

 ご飯の話で書き漏れていていたけど、昨日小説も買っていた。円城塔さんの「バナナ剥きには最適な日」。なんというか、とても現代的な作家さんだと思う。知らんけど。なんだか言葉遊びというか概念遊びが好きそう。タイトル買いしたけど、最初が、右を信じるなら左も信じないといけないみたいな話で、右クリックと左クリックがあやふやになっている自分としてはピンポイントだった。右と左は説明概念でしかない。説明概念は疎通の上では大事だけど。

 

そういえばラノベで好きなのは西尾維新さんの戯言シリーズ掟上今日子さんの話も面白いけど、なんだか当初のキレがなくなっているような。ドロドロしているところが好きだった。視点がおかしいのは知っている。という文脈で見ると、想い人の小説はライトというより、純文学とか私小説ぽいような。文字とひらがなの配列で視覚に訴えるというか、割と私的な哲学がある。別にえこひいきではないけど、これもどちらでも良い話。

 

さておき。

 

哲学と言えば、つぶやき場で見かけたのだけど哲学とは固定観念を打破するものみたいな漫画があった。「怠惰とは悪か」というテーマだったか。確かに、このなんとなく当たり前に想っている概念を分解してみるというのは哲学の醍醐味かとは思う。大学で哲学学べるって良きことだなと。僕は18歳までにはここまで行きつけなかった。なんとかぎりぎり法学に引っかかって良かったけど、素朴に考えるっていうことがほとんどできなかったような。中学くらいまではやっていたような気がするけど、他者との関係においては思考停止するしかないという何かの強迫観念が植え付けられて。

そうして、20代の記憶はあんまり残っていないけど、独学で哲学していた感はある。自分と他者の関係性とか世界の捉え方とか、そもそも自分は何を考えているのかとか。ついでに大学と大学院で勉強したことはほとんど残っていなくて、今の方が世界を分けられているなぁと思うと、何処かの機関での吸収効率ってかなり悪いらしい。吸収しているのはしているけど、自分のペースではないから、抜け落ちるものが多い。

 

抜け落ちると言えば、AIの超入門書で「言葉とは情報を落とすこと」というフレーズがあった。言葉は「箱」だと思ったのはもう何年前か分からないけど、まぁそういうことだろうなと。主体的な存在で考えたとき、言葉は情報の伝達というより主眼が情報の保存に向いている。自分の経験はこうだって言葉として情報量を少なくしておくと、より自分を補強できる要素が増える。僕は言葉に対してこういう機能を持たせていないから言語化により記憶の型落ちみたいなことはないけど、言葉にしてしまうことで過去は言葉通りのものだったと思い込める作用もあるよなと。

 

 これは別に悪いことでもない。脳の機能の1つの物事を抽象化して未来に備えるという意味では。同じ出来事は未来において1回も起こらないけど、抽象的に捉えることで情報量が多すぎることになることを防いでいる。というより必要不必要を頻度で選別しているだけなような気もするけど。AIにはこれが難しいらしい。あえて学習した情報を忘れさせないといけないとか。AIに感情とか意識は生まれないという説の著者さんだけど、人間が高尚だって観念に見える。主体的な認識として認識できるかどうかはさておき、そういうものはありえると思う。

 

 学習と進化の違いとかあるけど、ここは時間切れ。

 

 では、皆さん人間でありますように。

 

 おしまい。