椅子取りゲーム
昨日の日記はなんだかよれよれ。解明できていないところの話だからしょうがない。とりあえず卑屈さは自分の中でブレーキにはなりえないところまでは調整はできているから問題はない。いや、そうでもないか。関係の中でも自由になるのが最終地点だろう。
関係の中における自由とは。
そういえば、プログラミング入門書については書いていないけど、ちゃんと残業でも毎日触っている。まだまだ赤ちゃんみたいなものだけど、基本的な用語とルールは少しずつ身に着けている。情報としてそぎ落とされていてなかなか面白い世界。ifとelseで、もしこの条件にあてはまるならこういう表示、そうでなければ違う表示を返してくれるみたいな。言語というより論理式みたいなものなのか。まだまだ先は長い。
言語でいうと、やはりドイツ語も気になる。多言語並行してやった方が良いのかな。僕の主眼はやはり話すことではなくて読むことなのだけど。疎通の手段として欲しい訳ではない。日本語ですら相手はどういった意味でこの言葉を遣っているのかとかで微妙な誤差がある訳だし、文章内の単語だって、同じ記号でも文脈にとって意味が違うのだから、なんとなくて良いのかなという気もする。語彙というより語用の集積。
そういえば僕はあまり人と話している時に自分の語彙は遣っていないような。文章での自分語りは基本的に誰に向けなくても済むけど、発話となると自分の存在が否応なく場所を取る。僕が誰かと直に接して自分のことを語るとすれば、それは最低限のお返しみたいな意味になる、と思う。それか、相手のことを聞くために先に呈示する。この、発話と文章の語彙の違いはどこから来ているのか。
僕は文章も苦手だったし発話も苦手な人だったなぁ。
と、自分を掘り下げてみて。当てられて国語の教科書音読することも滅茶苦茶詰まっていたし、読書感想文もポンコツだったし、なんにも考えてないし。ただ、成績だけはまぁまぁだったから、特に欠陥があるとは評されなかった。
発話も文章も、表現は世界に自分の居場所を取ろうとする行為。ところで、エンパスの人が依存傾向が強くて、特に食で太った人が多いとか書かれていたけど、場所を取っている自分に何も感じないのであれば、僕とは全然違う。共感傾向なのに相手の自分に対する感覚は見えていないということになりそうな。結局自分のこと。
僕が異星人なのは、基本的に誰にも何処にも場所を取りたくないっていうこと。細かい話はまぁ良いか。恋文は捗るけど、これも結局表現としての資格がない。ということもないのだろうけど、ここは思考対象として据え置き。
情報の話。
えーと、物理学の話で出てきた情報は確か可能性の数だったはず。ただ、今日読んだ円城塔さんはちょっと違って。
思考実験だけど、情報とは、発する人と受ける人が相互に存在しないと存在できないもの。この捉え方も好きだ。つまり自分という情報はそれを受ける人がいないと情報としての価値がない。発信を人とすると主体が混じるからややこしいけど、例えば本にした方が分かり易い。
本を所有することと本から情報を読み取ることはイコールではないということ。情報としての自分で考えると、ややバグる。こういう情報として捉えて欲しいっていうエゴが出てくるから。ただ、情報源が人であっても、受け手に依るということは変わらない。
そうでしょう?
情報を更新可能性があるものとして食べる人ってそうそう居ないという偏見。
最後。
人の発話にはその人の人間性が表現されているという説。これも正しい捉え方だと思う。ただ、この人間性ってその人の中身というよりその人がどういう風に社会、というか関係を生きてきたかだと思う。発話は基本的には関係の中にしか生まれないし、集積した関係がどういうものだったかという意味では人間性を示している。
という意味で正しい。Faceって社会的外皮っていう意味もありそうな。
知らんけど。
実感としても、声だけの応対をしていて、この人はどういう風に生きてきてこういう声色になったのかなというのは感じる。僕は声色じゃなくて声質とか雰囲気でこの人の「声」好きだなぁと仕事と無関係に聴いている節もあるけど。
世界は正しさで溢れている。
人格は卑屈なくせに。笑
では、皆さんが正しくあれますように。