椅子要らずになったとき

 

 

30分は1日の何パーセントを占めるのかをお風呂で本を読みながら考えていた。電卓でもExcelでもpythonでもなんでも利器で計算すれば一発だけどお風呂の中では電卓は使えないので。

 

最初は24×60分の30で、通分して24×2分の148分の1で概算すれば良いのかなと当たりをつけて、結局これが正解だったのだけど、まぁまぁぐちゃぐちゃ考えた。ともあれ、概算で50分の1である2%よりやや大きいということは分かる。ここでの問題は小数点以下ではないから、これくらいで問題ない。

 

ところで、ほんとうに1日を24時間として良いのかというところはやや気になる。例えば睡眠もろもろにかかる時間を8時間として、覚醒時間である16時間を1日としても良いだろうし、仕事という拘束時間である8時間も除外した8時間という捉え方もある。さらに、必ずしないといけない家事とかも含めて完全な可処分時間5時間くらいが本当の1日としても良い。要は24時間があくまで習慣的な設定でしかないということ。観念としても問題ない。だいたい24時間に設定されているから暦として調整が必要になってきている訳で。日付も含めて。

 

まぁこんなの頭の体操でしかないけれど。

 

30分とは何ぞやというと、毎日日記を書いた後にある恋文時間。時間軸でどれくらいの比重を占めているのかが気になって概算してみた。この時間は何かをしながら想うとかではない純粋なもの。音楽は聞いているけど、別のタスクと並行している訳ではない。2%ちょっとって少ないなと一瞬思ったけど、いや、これは凄いことだなと翻す。何が凄いかというと、僕の比重のを認めてもらえるということ。

 

自分の1日の精神の50分の1強って凄くないか。

ここは個人のものさしの話。

 

まぁいいや。僕はこの24時間のものさしを規定値じゃなくて便利だからこのまま使い続けようと思う。例えば、今度見る演劇の上映時間は、40分くらいらしい。つまり、1日のほぼ3%ちょいの非現実。ちなみに24時間は1440分だから、1%が14.4分になる。かける3だと、43.2か。ちゃんと合っているか不明だけど。

 

僕としては、睡眠と仕事を除外した時間を自分の1日と捉えた方が生生しいと思っているけど。仕事が終わってから1日が始まる。これは時計に厳密に生きるための情報ではなくて、時計から距離を置くための手法。社会と適合する方法かもしれないけど。

 

 

さておき。

 

なんとなく理系っぽい繋がりで、AIと仕事の話。

 

AIの発展で食品産業と農業が自動化されていくだろうという話があった。これって、社会全体の経済としては利益になることだろうと思う。料理人は下ごしらえとかが必要なくなくって料理に集中できるだろうし、農作物は勝手に育つ。では、その単純作業を自分の仕事、つまり生活の糧にしていた人間はどうなるのだろう。働きたくないけど生活のためにやむなく働いている人の仕事がなくなったとき、その人は何をもって人生とするのか。充実した私生活があるのであれば良いけど、充実した私生活って公的生活が無くなってしまっても成り立つものなのか。

 

(僕は仕事しなくて良くなったらひたすら本を貪ってひたすら文章を生成すると思われる)

 

専門家は最終的にはAIと人間が融合すると捉えているみたい。生活の快適さを勝手に調整する、体の内側にある自律神経みたいなものが世界に備わる。こうなってくると、もはや個人とか関係なくなってくるだろうなと。まだ読んでないけど、全体として学習するみたいな表題が次の章のタイトルだったし。

 

快適を求める欲求も人間らしさだけど、本当に満たされても良いものなのかなぁ。

人の人格って、快適だったものより快適でなかったもので色付けされている気がするのだけど。

 

もろもろあるけど、時間切れ。

 

では、また明日。

 

皆さん良い夢を!