ご飯

 

 

そういえば、昨日は財布を忘れた話を書くつもりだった。事実的にはかなり重い話なはずだけど、観念の話題に流れるという。流れ流され。まぁあまり書いても面白くはないからということなのかもしれない。

 

財布を忘れたけど、別になくても良いかなと思ったけど、帰りにスーパーに寄れないのだけは困るなと、休憩時間の半分以上を歩いて家で弁当を食べた。このもろもろで感じていたことが、余計に歩くことになった自分の体力でも、財布を忘れた自分への悲しさでもなく、平日昼間の景色の違いの面白さだった。

 

天気は良かったのだけど、ちらっと雪が降る不思議な天気。暗がりでしか通らないかつてカラスの森だった開発中の住宅地は昼間に見ると、なんとも小綺麗に見える。いまやなんとかの丘という名称になりつつある(看板があった)。スーパーも建ててくれたら申し分ないのだけど。

 

そうして、僕は自分が捉えるものをある意味景色として見ているのだろう。感情とかも含めて。こういうのが自分の中で一致するのは思考とか言語化の瞬間かもしれない。

 

 

さておき。

 

明日明後日は個人的にもう大変。楽しみ過ぎて。言語化するのも大変。

 

なんだか企画担当の人のメールがデレているようなというのがまず1つ。招待扱いですって報知してくれたのもこの前との違いだし。楽しみですって返信したら、すぐ返ってきた。来場お待ちしていますって。まぁ、僕は目的の演劇だけ食べにいくけども。ついでに食べるとかはできないので。

 

呟き場を覗くと劇評を書くのに選ばれたのは5人らしい。何人が応募したのかは分からないけど、名前が載っているのはなんだか面白き。別に書くことには変わらないからへーって感じで。

 

ほんと、最大級の土日。いやまだ2月だけど、というのも関係ない。日付的に昨日のことを平気で書けるくらいには、主観的に流れている時間が違う。これが記憶力とされるのはちょっと違う。記憶力は過去を再現できる能力だけど、僕のは今が長いだけ。

 

この「今の長さ」理論で言うと、僕の時間はそれぞれ今が違う。記憶は再生することですり減っていくという感覚はおそらく、時間が客観的なものだという観念による。脳内のメカニズムには詳しくないから断言はできないけれど。

 

時間が便宜的なものでしかないと自分で納得してしまうと、自分の時系列をあえて過去と評す必要もなくなる訳で。もちろんおすすめはしない。たぶん人格が錯綜することになる。

 

というところで、演劇の啓蒙。

 

あくまで僕の主観的な見解だけど、演劇の良さは、感性の毛穴が全開になること。映画は観る主体に重きがあるけど、なんだろうな。人格的なものさしではなくて、自分が積み上げてきた感性が何を捉えるのかというのを、主観じゃなくて俯瞰で追える空間。たぶん通常の演劇通の観方とも違うのだろうとは思う。自分の繋がった近い世界しか見えないだろうし。

 

個人的にはとにかく凄い。藤田嗣治の絵画展でも思ったけど、そこを通した自分は通す前の自分とは違うモノになる感じ。僕は割とそういう意味で世界全体を過ごしているけど、強烈な印象を刻印するという意味。

 

良かったな、楽しかったなでは済まされない。文章に対して美味しいっていうのが僕の最高評価なのだけど、これは食べ物と同じように自分に影響するというローカル語彙。食べ物と同じように自覚できる影響範囲なんてないのだけど、そうじゃないモノの方が自分を形づくっているのは変わらない。

 

なんだっけ。

 

今のBGMは「君の恋人になったら」

 

でもなくて。

 

劇評云々。

 

劇評1回しか書いたことないけど、書けなかったからどうしようとかは思わない。文才はないけど、感じることは僕にしかできないから、あとはそれをどう情報として落とすかでしかなかろうなと。だから、別に綺麗に書くつもりもないし、文字数が足りないというころにもならない。文字の設定数は足りないけど。

 

でも、どこまで演劇の外を書くのかというのは気になるところ。割と批評って、その界隈での位置付けとか自分の主観とかの外のことが書かれていることが多い。ような気がする。

 

どこまで外して良いのだろう。

 

最初に観た演劇の日記は、かなり外から見ていた。自分の外にある現象の観察記。次は内側に入って、内側からの観察記。次はどうしよう。全然関係ないことと繋げて散文形式にするのは、劇評としてお金貰う以上不誠実に違いない。どうだろう。

 

言葉は情報を落とすものだけど、言葉がなければ情報自体がないから、全くないよりはマシということか。僕の日記は情報量多いけど、それほど僕には近くない。

 

では。

 

明日の日記を書くころには、僕は違う僕になっています。

 

おやすみなさい。