袋詰め

 

 

劇評メモ。「名前」「真空」「鮮度」「密度」「自分」「1つの行為に2つの意味」。「ゆっくり死んでいく」「空気」。

 

いやはや。美味しかった。鳥肌立ちっぱなし。鳥肌という生理現象は外界に対して緊張しているということ。寒さに対抗するとか怖くて警戒するとか。では感動は。今ちらっと調べたところによると、脳が緊張して勘違いするということみたいだけど、僕の見解は少し違う。自分の今までの精神の構成物質が異物を取りいれて変わってしまう瞬間への緊張。世界が今までと違うという意味では同じこと。脳は色んな身体感覚を流用するみたいだから、反応が同じでも驚くことではない。

 

僕の物語と観た物語が混在して大変だ。もちろん観た物語だって僕の物語に含まれている訳だけど。思い返すとまた鳥肌立ってきた。

 

僕の物語。京阪電車に2日連続で乗ると、景色の流れがだいたい焼き付いている。このあたりになるとひらかたパークの観覧車が見えてくるとか、廃墟があるとか、川とか生活とか。車窓から見える生活の匂いはとてもいとおしい。これは自分が俯瞰する立場だからと思っていたけど、どうやら認識が違う。昨日までの自分とは変わってしまった。

 

思考を巡らせる癖は変わらない。たまたまある駅に止まったとき、ベビーカーの子供と目が合って、子供が他人の視線を気にするのは、他人から自分に向かう注意を警戒しているからだろうなと。悪意が向けられたら即刻保護者に助けを求めないといけないし。ネコが視線を気にするのも道理としては同じ。ここから記憶について考えていた。旅行が人の頭に焼き付くのは、環境が変わって外界に注意を向けなくてはいけないからではないか。再現できるという意味での記憶は、注意ではなくて重要性。定期的にやってくる対象は対処する頻度が高いから、手続き記憶として残る。

 

どうでも良いことばかり考えるなぁと我ながら思っていたけど、どうやら個人的な物語としては伏線だったらしい。

 

そういえば、小説の話書いてなかった。昨日も今日も1冊読んだのだけど、2冊とも米澤穂信さん。昨日のは小説の中に別の短編があるやや暗い話。短編はリドルストーリーで結末は容易されているのだけど、組み合わせを変えることで話の方向が全く変わる。今日のは小市民を目指す男の子と女の子のカップルではないペアの話だけど、どうしようもなく一般人にはなれない話。氷菓でも思ったけど、そういうテーマがあるのかな。具体的な個人と抽象的な一般人。これも伏線。

 

そうして、降り立った三条駅出町柳で降りて恵文社一乗寺店に向かう筋もあったけど、ひねくれ者だから、昨日と同じ駅で降りたくない精神。水滸伝の最終巻を帰りにブックオフで買おうと思っていたのだけど、三条駅にもあった。好きになれそうなブックオフ。3階建てでとにかく本が多いし、何故か竹取物語のかなり古そうな分厚い本がガラスケースの中にあった。京都の本屋は良き。

 

ブックオフから出て目的地まであるこうと思ったら、あいにくの雪模様。というのが一般論だけど、僕は流石京都ってにやにやしていた。伊達眼鏡とマスクをしたままだったからあまり不審者に見えなかったはず。防御力上げていて良かった。

 

遠くの山に積もった雪がとても綺麗だった。

 

しかし、道行く人の表情を観察していると心なしか浮足立っているように見えたから、みんな案外はしゃいでいたのかもしれない。

 

そうして、会場入り。昨日の演劇の出演者は見ても分からないと書いたけど、普通に覚えていた。演出の人と、「神様気分良い御身分」を歌っていた人。こちらも書かせていただこうと思った。観た人に見られる文章の練度のためというのもある。

 

京都府立文芸会館に対してもなんとなく親密さが生まれてきている。司会の人、去年も居たけど変に存在感があるなぁとか、待合ソファーの横に置いたらひらかないのになぜ用具入れを置いたのかとか、砂利しか見えない小窓とか。

 

劇評は匿名的に書きたいと思っていたけど、これは匿名では書けないなと思った。どういう風に見えたかで自分の人となりが浮き彫りになるように作られているように観えたから。演じている人にはキャラクター付けていないのに、観る人には貴方は誰ですかと問うてくる。こういうのは心地よいのだけど。

 

最後。

 

感性の毛穴と思考の泉はみての通り全開だけど、なんだか帰り道自分がぐったりしているなぁと思っていて。これを自分が何者でもない無力感と解釈してうじうじしていた。

 

けども、これは違うなとお風呂に入って気付く。長らく得てない感覚だったから分からなかったけど、これは精神の弛緩。弛緩ってなんぞやというと安心なのね。これは演劇とは違うところからもたらされた。

 

生活とは関係ないところに生きているつもりだけど、名前の問題でしかなくて、そういうところを生きていることには変わりがない。

 

おしまい。