ただの

 

 

こんなに平穏で良いのだろうか。心地良い弛緩と幸せでも動く頭。切り離せば良かっただけだったのか。と、一般論的には当たり前なようなことを今さら実感する。思考の負の側面ばかりを見ていた。何を言っているのか分からないと思うけど、別に分かる必要はない。

 

そうして、本題の前に。

読解力についての話題をつぶやき場から。文章について、書かれているまま読めない人が多数派なのではないかという話。総理が募っているけど募集してはいないって言ったって本当かいな。書かれていないものを自分の都合良く読み取ってしまう人が多いのだとか。

 

テキストを書かれているまま読み取る難しさはとても分かる。音読をさせて見たら子供の学力は一発で分かるというのも良く分かる。音読できない子供だったから。確かになんとなく雰囲気で読む人が多い。その雰囲気が合う人と接することができるのがネットの良さだろう。傍観していると、なんでそういう風に対話ができるのだろうと思う節はある。

 

何かを読むとき、自分の読む能力が問われていると思ってきたのが、やっと最近。テキストはテキストのままで良い。問題はそこから先。ただ、僕も国語的な意味の読解はあんまりできていないけど。というかそれほどフォーマルに書いている人ってほとんどいないような。小説では空白とか指示語のねじれとかいっぱいあるし、むしろそれが技術だし。

 

ここまで来ると、言葉通りに読む読解力なんて本当にあるのかという発想も出てくる。読み方なんてそもそも自分勝手なものでないかと。現文の評論なら分かるけど、カジュアルに書いてある文章に読解力も何もないような。何の定義もなく言葉を遣う文章は勝手に読むしかないし、だからこそなんとなく皆言葉を遣えるわけで。書き手としてはこう読まれるしかないと思っていても、言葉のニュアンスは人それぞれだから、どうあっても不一致になる。一致していることより不一致をどうするかの方が大事なような。

 

何をぐだぐだ書いているかというと、特に意味はない。

 

僕が自分の思考と発話を分離しているのは、たぶんこういうところなのだろうなぁという直感。思考としての言葉と、発話としての言葉は個人的に全然違う。ほんとに。これは純粋な個人的感覚だから、説明はできない、というかする必要もない。どちらも本音だけど。

 

まぁ良いとして。

 

やっと本題。

 

もやもやする。劇評のことと、想い人との関係のことと。

もやもやは、座りが悪いじゃなくて、まだ直感が言語化を求めているという定義。

 

まずは劇評。

 

観てない人が読んでも全く分からないだろうけど、観ている人も特に分からないから問題ない。とはいえ、少しは説明が必要か。

 

仕事の演劇。演出家の人がインタビューした現実的な人達のコメントを主演の人が淡々と語りながらバナナを真空パックしていく劇。

 

やっぱ駄目だな。僕の言葉は収まるべきところにしか収めたくなくなっている。劇評に対する文章は公的には書かない方が良いか。

 

ではカジュアルな話題。

 

テキストと人の定義。

 

まず、人の定義って考えたことあるかどうか。これって深いようで浅くて、そもそも自分の存在とはという定義が他人を決めている。というだけ。他人を見ているようで自分を見ている。まぁこんなこともどうでも良い。

 

短文で通じると思えることも通じたと思うことも、一種の自分の話。

 

 

なんだか、ここに書けなくなってくる次第。

 

それはそれで問題ないはず。僕なんていても居なくても変わらない。

良い意味で。

 

最終的には、その変わらなさをどういう風に解釈するか。

 

僕はね、

 

 

ではおしまい。