観念分解論
また財布を忘れたし、ガスの払い忘れも気づかないで冷水シャワーコースだったし、卵も買い忘れていた。フロスも買うつもりだったのに。なかなか惚けている。のろけじゃない。
財布忘れて早歩きで帰ったけど、やたらと暖かい。もう冬はお仕舞か。そろそろ土筆が生えてくる時期だしなぁ。2月9日の京都が最初で最後の冬らしさ、になるのかどうか。
冷水シャワーはなかなか大変。必死に体を洗うというのはなかなかなかろう。精神修行に、はならない。冷たいだけ。明日には復活しているから問題ない訳がない。優先順位おかしすぎる問題。
卵買い忘れたのは特に大変ではなかった。ガスは使えないから、当然電子レンジだけしか使えない。メインは鶏むね肉と玉ねぎのみじん切りの、レモン塩ダレ。中身は酒、塩、ポッカレモン、コンソメ、ちょっとだけ醤油。副菜はしめじ、えのき、まいたけをレンチンしてごま油とゆかりといりごまで和えただけ。あとは、昨日作りすぎて余っていた厚揚げとしめじとえのきのレンチン煮を追加した。なんだか血液がさらさらになりそうなお弁当。やたらと
白い。食材が被っているのはやや遺憾だけど。
何はともあれ、自分の落ち度さえ利用して楽しく生きているだけ。
さて、前置き終わり。
カントさんの時間の観念はなんとなく分かると思った。人は自分自身も含めた世界を時間の中でしか捉えらない。時間は客観的に在るものではないとのこと。僕は前者より後者に重き置きたいところだけど、例えば、時間をかけたという結果から、対象に重きを置いているということは逆算できるかなとか。これで言ったら一般的には自分が自分で在ることが一等賞だと思うけど、僕は自己観を積み上げることには時間を使えない。
時間の概念はなかなか奥深い。
終わりの話。
これを言ってしまったら、随分すっきりしてしまった。端的に言えば、想い人に
現実的な恋人になってくれませんかって告白しただけ。これもほうけている一部なのだろうな。結果の前にとても浮いている。
物質的な意味と観念的な意味の人。
そうして、定義として恋人の意味を考える。
通常の語用としては、物資的な意味での人を求めることに重きが置かれている。生活のぱーートナーとか、側に居たいとか触れたいとか。これらの何処から何処までが恋人でないとできないことかというととても微妙なところ。ということは、中核的な定義ではない。
そうして、物質の続きだけど、恋人だからを動機にして、ここまでしていい、求めて良いという観念。翻して言うと、恋人とはある程度自分に対して融通が利く存在ということ。これも別に恋人固有でもない。
そもそも、あんまり恋人って言葉は遣われないのか、どうかは知らない。パートナー関係でいうと、相方っていう語用もあるね。これはこれで良いと思う。
と考えていくと、僕が想い人と恋人になれたとして、一般的に言われている恋人の特権を行使できると思えるのかというとそんなことはない。直に会うとか話すとかの願望があるとしても、恋人になったところでそれに合わせてもらっては困る。たまたまの一致で全く問題ない。
とすれば、じゃあなんで告白したのだ。成功したところで成果はないし、失敗すれば書く範囲が狭まる。
それでも求めた中核的な定義は、結局、呼称と認識。現実的とか言いつつ観念に依っている模様。観念としての現実的な時間とか言い出すとややこしくてしょうがないけど、何かしらの印が欲しかったのだろうなぁ。
答えの筋はいくつか想定しているのだけど、おそらく想定の外が返ってきそうだ。
想い人にとって現実的に在りたいと願ってしまったけど、それ程現実的ではなかったか。
こういった定義考察はみんなやった方が良いと思うのだけど、自分自体が確立していれば、もう言葉は一般的語用だと思い込むことで問題ないのだろうな。
観念のすり合わせはするかもしれないけど、言葉のすりあわせはしない。
まぁこんな感じでおしまい。