夢か現か

 

 

特に何かあった訳ではなく何に影響された訳でもなく切り替えるために昨日は日記を書かなかった。本がどんどん読まれていく。バナナ剥きの次は19日発売の予定だから空いてしまった。なんてことはなく、目に留まったねじまき鳥クロニクル3巻が臨時で埋めている。何故3巻からか。ぱっと見1巻がなかったから。そうしてあまり気にならない。

 

確か主人公であるオカダ・トオルが法律事務所で雑用していて退職。配偶者であるデザイン事務所に勤めている久美子の現実の生活は猫が居なくなるところからだんだんと非現実に迷い込んでいく。井戸、笠原メイ、加納マルタ、ねじまき鳥。あと、ワタヤノボルだっけ。読んでいると1Q84と雰囲気が似ているような。

 

なんとなくタイミングが合っているなぁと思った、のはねじ。しかし、締めようとしているのか緩めようとしているのかは全然定かではない。うーん。結局同じことのような気もするけど。流されないようにという指針も自分のだらけならきりきり締めているだけど、自分の無駄な焦燥ということであれば緩めるわけで、やはりどちらも同じような。

 

いや、とても元気である。特に違和もなし。

すっきりしているとも少し違うけど。

 

 

さて。

 

依存とはなんだろうと考えていた。自分が何かの存在に依りかかるということなのか、それも自分の存在が何かに依ることで成り立つという精神性なのか。焦点が対象なのか主体なのかの違い。

 

まぁでも、自分が成り立つために不可欠な要素って言ってしまえば自己意識というか自己観念というか、そういう主観だけ。あとは必要なようでなかったらなかったでなんとでもなる。だからこそ希少だということだけど、これは依存とも違うか。結局主客が同一化することが依存という現象なのかな。知らんけど。

 

いやはや。

 

なんだろうな、日記で考察するより自分の中で思索する方がなんとなく自由になってきたような気がする。リハビリ、ではないな、筋トレ、ウォームアップみたいなものはもうお仕舞なのかぁ。何かもっと分化させるべきなのかどうなのか。これから何か月かは法律といちゃいちゃしたいところ。それなら公開せずにWordでひたすら書くべきだろうし。あと、劇評も進めたいし。

 

まぁ良いや。ここは考えよう。

1くらいにペースを落とすのが落としどころか。

 

距離感について。

半透明人間。

 

人の精神はそれぞれ重力とか引力を持ち合わせている。近づき過ぎない、でも離れないちょうど良い距離というのがきっとあって、そこを維持するのはとても難しい。近づきたいという思いは距離が詰まる程強くなるし、離れ過ぎてしまえば両者の軌道はもう交わらない。近づき過ぎるということはもうちょうど良い距離には戻れないということも意味していて。どちらか(きっと僕だ)の引力がなくなれば、もう精神宇宙空間上を近距離で繋ぎ留める力はどちらにもない。だから、僕は公転軌道で周回することを選ぼうかなと思う。ここであれば祈りも想いも変わらない。

 

そういえば、カントさんだっけか。時間と空間は人が物事を直感する形式だとするけど、その直感の対象は物事自体ではなく現象であるとか。この考え方はとても良いと思った。僕が誰かにとって現象に過ぎないのであれば、なるべく嬉しき現象でありたいなと。現象って要は、現(うつつ)の像ということでしょう。そうして、自分が感得する現象もなるべく良いものを選別したい。これは捉え方次第というか、捉える型次第だから、こちらの方が制御はしやすいはず。

 

なんだか感傷っぽいけどそうでもない。

 

では、ここままで。

 

ゆっくり休めていますように。

 

そして僕以外の全宇宙がほどほどに満たされますように。

 

おやすみなさい。